神奈川県弁護士会所属 弁護士 太宰 順一(だざい じゅんいち)
〈経歴〉 兵庫県神戸市出身 京都大学法学部卒 日本弁護士連合会消費者問題対策委員会委員 神奈川県弁護士会消費者問題対策委員会委員 神奈川悪質サイト被害弁護団 神奈川県弁護士会法律相談センター運営委員会委員 これまで、いろいろと書いてきましたが、今後はブログの方で書いていきたいと思います。 ブログは↓ http://ichbinjunichi.blog.ocn.ne.jp/blog/cat12114765/ ブログは引っ越しました ↓ http://blog.goo.ne.jp/portside-dazai_anwbr 日々あれこれ 養子縁組無効確認(2012年3月8日) ある日役所に行って、自分の住民票を取ろうと思ったら、「そんな人はいません」と言われたらどう思うでしょう。これは現実にあった話です。 昔の住まいを見てみると(2012年2月28日) 江戸時代に書かれた耳嚢という本に面白い話が出ています。 人はそれぞれ(2012年2月13日) 年末にNHKで「新選組血風録」を放映していました。展開のテンポのいい面白いドラマでした。 節分(2012年2月6日) 節分も過ぎました。子供のころ、節分の日には豆まきをしました。今も世の中ではこの習慣が廃れていないようで、豆まき用の豆がこの時期には売られています。新しい習慣で、恵方巻きというのもあります。大学のころは、まだ関西辺りにとどまっていた習慣ですが、いつのころからか関東にも進出してきました。事務所のある関内周辺では、豆まきはなさそうですが、恵方巻きは、コンビニや駅の飲食店で売られています。 清盛の風貌(2012年1月30日) 金色夜叉(2012年1月9日) 「金色夜叉」は、尾崎紅葉が書いた作品です。作者、作品名が有名であるだけでなく、その一場面が非常に有名な作品です。その場面とは、言うまでもなく、熱海の海岸で、主人公貫一が、主人公お宮を足蹴にする場面です。足蹴にする際に、貫一が、お宮に「ダイヤモンドに目がくらんだか」というようなことを言ったということも世間に知られていることでしょう。 受験勉強の知識(2012年1月2日) 書店に行き、棚を眺めていました。岩波文庫の「ガリア戦記」が目に入り、何となく読みたくなり買ってきました。 堺(2011年12月24日) 先日、NHKで、大河ドラマ「黄金の日々」の第1回を放映していました。 方言(2011年12月18日) パソコンで文を作っていました。人を背負った状態を表すために、人を「おぶる」と打ち込みました。いざ漢字変換をしようとするとうまくいきません。漢字でどう書くのか辞書で調べたのですが、そのような言葉は載っていませんでした。このとき初めて「おぶる」が方言であることに気づきました。「おんぶする」という言葉は共通語でしょうから、これに似た言葉で「おぶる」と言うのも当然共通語かと思ったら、さにあらずでした。 ロートレック展(2011年12月12日) 三菱一号館美術館に行き、ロートレック展を観てきました。 山の辺の道(2011年12月5日) 山の辺の道は、奈良県にある道です。古代の道の跡と言うことですが、いまでは散策ができるように整備されています。南は桜井市から北は天理市まで伸びています。 南蛮美術(2011年12月1日) 東京のサントリー美術館で開催されている「南蛮美術の光と影」展に行きました。 法然と親鸞(2011年11月22日) 「法然と親鸞展」に行きました。東京国立博物館で開催しています。今年は、法然の800回忌、親鸞の750回忌でそのための企画のようです。法然、親鸞の生い立ちから、宗教的活動、そして彼らを継いだ人たちの活動がわかる展覧会でした。 長谷川等伯(2011年11月11日) 飲食店の出店、閉店は日常茶飯事です。事務所のある関内でも、その光景はよく見られます。イタリア料理店が2軒閉まり、別の店が入りました。中華料理屋が閉まり、別の中華料理屋が入りました。 インフルエンザの予防接種(2011年10月24日) インフルエンザの予防接種は、みなさんどの程度受けているものなのでしょうか。私は、10年以上前から毎年受けるようにしています。今年も、予防接種の季節到来で、先日予防接種を受けました。インフルエンザになると、しばらく仕事を休まねばなりませんし、何よりも辛そうなので、予防接種を受けるようにしています。 香港映画(2011年10月17日) 街を歩いていたら、DVDの安売りをしていました。「男たちの挽歌(原題 英雄本色)」のDVDがあり、購入しました。 横浜トリエンナーレ(2011年10月10日) 横浜トリエンナーレに行ってきました。現代の芸術家の作品が出展される展覧会です。10年位前になるかと思いますが、横浜ビエンナーレと言う展覧会がありました。こちらも現代の芸術家の作品が展示されていました。行ってみて、何をどう楽しめばいいのかわからない展覧会でした。今回のトリエンナーレもそのようなものかと思い、本当は行く気がなかったのですが、招待券があったので、行ってみました。やはり、よくわかりませんでした。 畦道(2011年10月9日) テレビ朝日で放映している「タモリ倶楽部」で、先日東京23区の区境を取り上げていました。なぜ、そこに区境があるのかを紹介していたのです。区境の中には、昔の田の畦道が道になって、区境になっているというものがありました。畦道という点に妙に惹かれました。 横浜には、中華街があります。あの界隈は、道が碁盤目にひかれているのですが、中華街の大きな通りは、碁盤に斜めにひかれています。その理由は、中華街が田んぼに建設され、その際畦道を大きな通りにあてたので、当時の畦道の形状がそのまま現在に伝わりました。横浜歴史資料館で知りました。 道というのは一度できると長く続くものです。典型的なのは京都の道で、平安の昔にできた道が今に伝わります。もちろん道の幅は変わります。ここまで古いものでなくとも、明治、大正、昭和初期の地図で住んでいる町の道を調べると、当時の道が今に続いていることがわかると思います。 畦道は、田にある土でできた道です。どちらかというと脆い構造物です。存続しにくいはずの構造物が、道とされたことで未来に長く続くことになりました。お金も人力もかけた壮大な建物は、いかにも未来永劫存続しそうですが、意外に長続きしないものです。畦道は、足元にある、特に金をかけたではない、なんということのない構造物です。形を変えているとはいえ長続きするところに、逆説的な面白みを感じました。 漢字の意味(2011年10月6日) 朝テレビを見ていたら、国会議員の外遊の話をしていました。金の無駄ではないかという論調でした。コメンテーターがコメントして、「外遊の遊の字をなくすようにしてほしい」と言っていました。「外遊」の「遊」の字に「遊ぶ」の意味を込めた発言です。遊ばずに仕事をせよということです。 随分昔に見たニュースで、海に「遊泳禁止」と書くとサーファーさんが怒るという話がありました。「俺たちの泳ぎは遊びとちゃう。命かけてんねん」ということなのでしょう。 確かに「遊」の字は遊ぶと読み、好きなことをして楽しむ意味があります。しかし、「遊」の字を使う言葉には、遊説、遊走子、遊牧とかいろいろあります。遊説の「遊」を遊ぶと考えると、遊説とは人生いかに楽しむかを説くことであるとなるのでしょうか。実に哲学的です。勿論そのような意味ではありません。 漢和辞典で調べると、「遊」にはあちこちに行くというような意味があります。外遊ほか、遊泳以外の上に挙げた言葉の「遊」は全部その意味です。遊泳の「遊」は浮くという意味らしいです。「遊」という小学校で習う程度の漢字でも調べると、知らないことが出てくるものです。 縁(2011年10月5日) 司法試験に合格すると、すぐに裁判官、検察官、弁護士になるのではなく、研修所に通います。研修所の生徒を、司法修習生と言います。数年前に研修所の研修制度が変更になり、それにともなって、弁護士会では、司法修習生向けの講座が設けられました。そのときに、私は、刑事弁護の講座の講師に手を挙げたところ、講師になりました。以来、毎年刑事弁護の講座で話をしています。 講座には、消費者問題に関するものもあります。これについても、2年前に講師をしました。講師と言っても、業者と取引して困っている人の役で、修習生からインタビューを受けるというものでした。今年は、消費者契約法の講義をすることになっています。 何か講師づいています。私は、この業界に来る前は予備校の講師をしていました。研修所に入った時点で、これでもう講師はしないだろうと思っていました。ところが、弁護士になっても講師の仕事が来ます。 もともと教育には縁があります。母方の叔父と叔母は教師でした。叔母は引退しましたが、叔父は今でも現役です。自己紹介に書いた親戚の清右衛門も水戸藩で教える仕事をしていたようです。本人の意思とは関係なく何かの方向に人を運ぶ不思議な力の存在を感じます。 代替わり(2009年2月4日) 食べ歩きが趣味という方も多いでしょう。多くの店に足を運び、様々な味を楽しむことができ、それは楽しいことでしょう。ところが、私は、一度気に入ると通い続ける方です。外食の回数が多いわけではないので、勢い、同じ店に長期間通い続けます。 京都に下宿していた頃、そばにイタリア料理の店がありました。買い物やどこかに出かけるときの道順の途中にあり、よくその店を見ていました。貧乏学生で今は叶わないけれども、いつかはきっと入りたいと思っていました。ようやく念願が叶ったのは、下宿を引き払い、自宅に戻る日でした。京の都を離れる思い出に、父に連れて行ってもらいました。何を食べたかは覚えていません。しかし、お店の人が親切で、店の雰囲気が家庭的であったことは覚えています。店の主人がニコッとほほ笑んだ顔を今でも思い出します。 以来、そこがお気に入りになりました。もっとも、次に来店したのは、初来店から10年くらいたっていました。しばらくぶりに入ると、お店の雰囲気はそのままでしたが、当時接客をしていた人に代わり、若い人が接客していました。確かめたことはありませんが、前の主人の息子さんではないかと思っています。親切で温かい接客態度は受け継がれていましたし、店の雰囲気もそのままで、初来店のとき同じ心地よさがありました。その後も京都に行くと、その店に行っています。 浅草にも行きつけの料理店があります。ここも私が京を離れて直ぐくらいから家族で通い出し、もう結構な年数になります。通い出してから、同じ接客係の人がいました。通ってしばらくしてからだと思うのですが、新たな接客係の人が入り、この人も以来店に出ていました。料理が絶品であることは勿論ですが、その人たちを含めて、お店の人の感じの良さが店の魅力です。 ところが、ある日、その店に行ってみると、馴染みの2人がいないのです。別の接客係になりました。店の感じがいいのは変わりありません。ただ、これまでとは店の感じが変わったのは確かです。このときに初めて、「代替わり」という言葉を意識しました。すべてが永遠に続かないことは自明の理です。現に、京都のイタリア料理店では、「代替わり」を経験しています。しかし、イタリア料理店は、人が変わっただけで雰囲気が変わらなかったので、代替わりを意識しなかったのです。これに対し、浅草の方は、店の雰囲気が変わったことで「代替わり」の意識が芽生えたのです。一時代が去った寂しさを感じました。 ただ、店を出る時に事情をきくと、お一人は、療養中ということでした。そのうち現場復帰ということらしいです。「代替わり」の寂しさから、少し解放された気分でした。 春やあらぬ(2008年12月27日) 昨日26日が仕事納めでした。したがって、弁護士で、今日から休みという方も多いことでしょう。私はというと、当番弁護士になっていて、出勤しています。当番弁護士というのは、警察に捕まった人が、弁護士に相談ができるよう、相談担当の弁護士になるというものです。捕まった人が、当番の派遣を要請すると、当番担当の弁護士が、その人のもとに訪れます。私が担当した中では、要請の理由の多くは、刑事手続きがわからないので、今後どうなるか教えてほしいというものです。 急に忙しくなって、土日も出ることが多く、しかも今日もこのような調子ですから、例年ならとっくに終わっている年賀状の準備ができていません。年賀状には、古典を題材にして、歌や言葉を入れるのですが、その選定に苦労しています。このところ読んでいないため、いい題材がわからないというのも理由です。 美しいと思う歌はあります。伊勢物語に出てくる、「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」です。主人公が通っていた女性があったのですが、どこかに行ってしまって会えなくなりました。主人公が、もう女性のいなくなった館で読んだ歌です。月は昔の月ではなく、春も昔の春ではなく、わが身だけが昔のままである、というわけです。普通、不変であるべき春や月があって、春も月も昔のままなのに、わが身だけが変わってしまったと嘆きそうですが、この歌はそうではありません。変わったのは春と月で、変わらないのがわが身です。ここが面白いところです。本来心躍らせる春や月が、女性がいなくなって、以前とは異なり色褪せて見えるのでしょう。そして、自分は元のままである、つまり取り残されてしまったのです。暖かな春、明るい月、桜の花が目に入ります。誰もいない静かな館の廊下で、一人でいれば、美しい景色が却って、悲しさを増すことでしょう。人生の無常ではなく、一人になった悲しさがにじみ出ている歌です。 好きな歌ではありますが、華やいだ正月の歌に使うには、ちょっとね、という気がします。 旅行(2008年11月30日) ホームページの改訂をせねばと思いつつ、1か月以上がたちました。変化のないことは、飽きられる原因の最たるものです。最近ご新規の訪問者も減りました。忙しいから変更がないので、それはそれで結構なのでしょうけれど。訪れる人が少ないのはさみしいので、今回久々の変更です。 休みを利用し、日帰りで京都に行きました。目的は、六波羅密寺の秘仏を見ることです。六波羅蜜寺は、京都市下京区にあります。この寺で有名なのは、念仏を唱えると口から仏が出てくる空也上人像と、平清盛像です。何度みてもほれぼれする像です。今回は、辰年に公開される秘仏を見ました。辰年にあらざる本年は特別に公開中でした(公開日はご確認ください)。 秘仏は本堂に安置されています。本堂に上がり、秘仏を眺めました。秘仏は十一面観音です。背の高い細みの体と、優しさの中にもきりっとしたお顔です。あまり公開しないせいか、金箔が多く残っており、輝きを感じます。優美な仏像を前に、いつまでも離れることができませんでした。 京都で行こうと思ったところはここだけで、あとは特に予定は立てていませんでした。ぶらっと歩き、六道珍皇寺へ行きました。小野篁が、地獄に通う際に通ったという井戸がある寺です。盆のころはにぎわう境内ですが、この日は人がほとんどいませんでした。静かな境内でした。京都に住んでいるときは、特に意識しなかったのですが、京都のいいところは澄んだ空気と静けさです。都会で澄んだ空気と言うのは変なのですが、空を見ましょう。青く澄んだ空が見えます。寺はとくにそうですが、静かです。都会の喧噪を離れると、心が落ち着くのがわかります。時折は、人気のない広い境内で静けさを楽しみたいものです。京都に住んでいないのを返す返すも惜しく感じます。 六道珍皇寺 ハンマースホイ展(2008年10月16日) 上野の西洋美術館で開催中のハンマースホイ展に行きました。ハンマースホイは、19世紀末のデンマークの画家で、彼の地では有名な画家だそうです。日本ではそれほど知られているのでしょうか。少なくなくとも私は知りませんでした。このため、ハンマースホイの絵を見たのは今回が初めてです。 面白い絵の描き方をします。建物内部の絵を描く時、人は描きません。家具もほんの少ししか描きません。引っ越すときに、家具を置く前の部屋の内部を見るかのようです。建物内部であり、明らかに生活の空間であるにもかかわらず、生活感がないのです。頭の中で、生活の場であるという理屈とその感じがない印象が乖離して、不思議な気分になります。 街を描いても、人がいません。人の雑踏が醸し出す、人間的なぬくもりや、喧噪が全く感じられないのです。そこに人間の造った構造物のみがある絵を見ていると、この世から誰もいなくなり自分だけが残されたような不安を覚えます。数か月前に見た映画「I am Legend」で、人のいない都会風景を見たときと同じ感覚です。 このような絵のせいでしょうか。どの絵を見ても、一切の音がないぐらいの静寂を感じました。印象派展をしているときのような混雑がなく、観客が少ないことも、その感覚を強めました。静かな静かな展覧会でした。 さまざまな感覚に襲われながら、その感覚を楽しめる展覧会でした。 源氏物語 2008年9月17日 「いずれのおんときにか」と言えば、有名な源氏物語の書き出しです。今年は源氏物語誕生1000年ということで、記念の展覧会が行われています。 今の学校事情はわかりませんが、私の頃は高校の教科書に源氏物語が取り上げられていました(という記憶です)。だから、同世代は源氏物語を知っているということになりましょうか。しかし、一節を読んだことがあるかどうかとはかかわりなく、紫式部作源氏物語を知らない人はいないでしょう。 有名な作品であり、全編を読破したいという夢は昔からありました。しかし、なんといっても長い作品です。しかも、古文としては読みやすい部類には入らにように思います。大学受験の勉強のためにZ会に入って、添削を受けていましたが、国語の出題に源氏物語が取り上げられ、苦闘した記憶があります。こちらは記憶があるぐらいですから、余程苦しめられたのでしょう。何が大変かというと、文が難解なのです。主語がないので、誰の言動であるか、すぐにはわかりません。地の文と会話文が区別しがたいのも、意味を取るのを困難にします。 現代語訳も出ています。しかし、古典はあくまでも古語で読んで昔の時代に浸りたいというわがままな希望を持っていました。読破を決意して何年もたって、いい本に巡り合いました。新潮日本古典集成の源氏物語です。原文があり、分かりにくいところは現代語訳があり、注釈も豊富という本です。主語は補ってありますし、鍵かっこもついています。これにより、原文を味わいつつ、物語を楽しめました。 源氏物語は、光の女性遍歴の部分ばかりが語られますが、女性遍歴を一つの大きな柱に、光の政治的な生活も別の柱として、物語は進みます。そして、根底には、無常観や因果応報という仏教観があり、読む者に常に仏教を感じさせます。源氏物語は、光の生涯が描かれますが、光は、忽然と物語から姿を消します。その行方は読者にはわかりません。次いで現れるのが、光の子として生まれた薫と、光の孫である匂兵部宮です。今度は、この2人と浮舟の3人の恋愛を柱に物語が進みます。 この3人の物語の部分である宇治十帖は、読んでいると宇治川のせせらぎが聞こえます。今、宇治川の畔に立つと、ざあという音が聞こえます。物語は、見事に宇治の光景を踏まえています。都の中心部とは異なった、自然の風景に満ちた宇治川を背景に、3人の生き方が動的に描かれる宇治十帖は、源氏物語の中で、好きな部分です。 古典文学 2008年8月15日 夏休みのところも多いようですが、当事務所は夏休みはなく、張り切っています。では、本題に。 日本の古典文学は、中学や高校で学びます。動詞の活用形を覚えたり、古語の意味を覚えたりと、味気ない勉強を積まねばなりません。入試に出るからということで、古典の問題を解くこともあります。学校時代、古典を楽しむ心の余裕は出にくいと言えるでしょう。 私もそのような一人ですが、司法試験の勉強を始めてから、古典をよく読むようになりました。古典は難しいとの印象があります。しかし、それは学校で使われている作品が、読むのが難しいものを使っているからです。 当初読んだのは、上田秋成の「雨月物語」です。これは江戸時代の作品ですから、擬古文です。意味が取りやすいうえに、話の筋が怪談で、楽しくすぐ読めます。「平家物語」も読みました。これも意味が取りやすく、どんどん読めます。大作として、「太平記」も読みました。南北朝を舞台にした軍記物です。大河ドラマを見るような気分にさせる作品です。中国の古典を引用するところが随所にあるのですが、そこは冗長な気もします。 兎に角、どれを読んでも面白いこと請け合いです。「今昔物語」は、読んでいてよくこのような展開になるものだと感心しました。話の展開が奇想天外です。「今昔物語」は、本朝を舞台にするものとそれ以外があるのですが、個人的には、我が国を舞台にした本朝が好きです。話の展開が巧みな作品が多いからです。 他にも面白くて、すぐに読んでしまったのは、「落窪物語」です。継子いじめの物語です。主人公の姫君は高貴な出なのですが、継母が下女としてこき使うは、下品な老人に嫁がせようとするは、あの手この手でいじめ抜きます。しかし、この姫君を見染めた高貴な公達が現れます。公達は姫君を救い出そうとするのですが、はて結末は・・・。 「狭衣物語」も好きな作品です。容姿端麗の主人公は、妹のように一緒に過ごしてきた従妹に恋をします。しかし、受け入れられず、いつも空しい気持ちでいながら、女性遍歴を重ねます。源氏物語に似ていますが、それとは全く違った話しで、意外な結末を迎えます。最後のシーンが何とも哀愁を帯びていて、大いに気に入っています。 走る 2008年7月28日 北京五輪が近づきました。報道では様々な意味で北京五輪が取り上げられますが、五輪の録画をしたがる人を狙った、録画機器の宣伝が行われ、スポーツ観戦を楽しみたい人もきっと多いはずです。 スポーツというのが元来苦手です。学校時代、体育の点はよくありませんでした。興味もないので、運動部に入ることもなく、体を動かす機会もあまりありませんでした。スポーツは観ることさえ好きではありません。 司法試験の受験勉強が本格化すると、体を動かす時間が極度に減りました。ふと考えたのは、足を使う状況です。机の前で一日の大半を使うようになると、机と家の中のどこかの間を動く時しか足を使いません。足が弱るのは目に見えています。しかも、体重が増え始めました。そこで、始めたのがジョギングです。 減量に役立っているか否かはわかりませんが、体にはいいようです。今でもそうですが、走れば、机に向って凝り固まった体がほぐれる実感があります。久々に走ると、腹筋、背筋が筋肉痛を起こしますから、そこいらに効くようでもあります。マラソンは学校時代もっとも嫌いな競技でしたが、今では嬉しそうに走っているから不思議です。競技ではなく、自分の好きな速さで好きな距離を走るのがいいのでしょう。 横浜は、MM地区は歩道が整備され、安全に走れます。臨海パークに出れば、船が行き交う海が見えます。波の荒い日には、臨海パークの岸壁に波がぶつかり、水しぶきが高く上がります。足を延ばして中華街に行けば、店から漂う香辛料の匂いがします。視覚的に、さらには嗅覚的にも楽しく走れる街が横浜です。 今の時期は、よほど涼しくなければ走りませんし、真冬は走らず、花粉の時期も走りません。オフが多いのですが、走ることは長く続いています。五輪では、マラソンを楽しみにしているのか?いえいえ、人の走る姿を観る趣味は、やはりありません。 オペレッタ 2008年7月16日 1 フォルクスオーパー 今年は、しばらくぶりで、フォルクスオーパーが来日しました。 フォルクスオーパーはウィーンにある歌劇場で、オペレッタをよく上演しています。フォルクスオーパーは、何年かに一回来日し、日本にいながらにして本場のオペレッタを見せてくれます。 オペレッタは、喜歌劇と訳されます。日本でよく知られているのは、ヨハン・シュトラウス作の「こうもり」とフランツ・レハール作の「メリーウィドー」です。オペラとよく似ていますが、話の筋は明るいのが普通です。通常は、男女の恋愛を描きます。男女は、時には反発しながらも最後には、恋愛が成就します。音楽は、親しみやすくわかりやすいものです。歌い手は、時には踊りも交えて歌います。オペレッタでは、華やかで、楽しい舞台が繰り広げられます。「Volksoper wien」で検索すると、フォルクスオーパーのホームページが出ます。そこでは、舞台の短いビデオを観ることができますので、興味のある方はそちらへ。 2 待望のオペレッタ フォルクスオーパーは初来日のころは、3年に1度くらい来日しましたが、このところは8年に1度くらいしか来ません。他の劇場にしても、オペレッタの公演自体あまりありません。舞台が観られないなら、せめてテレビで放映を、と思いますが、放映はほとんどありません。DVDでも、といってもやはり、あまり出ていません。オペレッタは、観るのが大変難しいのです。 このため、曲は知っているが、どのような話かわからないオペレッタというのがあります。たとえば、タウバーのレコードやCDには、あるオペレッタに出てくる歌のうちの何曲かだけ入っていることがあります。これを聴くだけで、もちろん、感動しますが、そのオペレッタの舞台を観たことがないので、どのような話なのか、どの場面で歌われるのかが謎のまま残ります。しかも、何十年もとなるのです。 そのようなものの一つに、Die Herzogin von Chicagoの曲があります。訳すと「シカゴ公爵夫人」となります(もっとも、ここでHerzoginを「夫人」と訳すのは完全な誤訳ですが)。日本では、ほとんど知られていないエメリッヒ・カールマーンの作です。タウバーのレコードにそこで歌われる曲のうちの二曲が入っていました。一曲は、哀愁を帯びたワルツの「ウィーンの歌」、もう一曲は不思議なメロディーの「平原のバラ」という曲です。 カールマーンの作品は、別の作品をフォルクスオーパーの舞台で観て以来、ファンになりました。彼は、ウィーン、ハンガリー、アメリカの音楽を取り混ぜた作品を作っています。ハンガリー音楽の哀愁を帯びて、情熱的な曲が効果的に現れて、聴く者の気持ちが高まります。カールマーンファンとしては、「シカゴ公爵夫人」はどのような作品か観てみたくて仕方なかったのですが、その機会もなく、月日が流れました。 ところがある日突然、DVDが出たのです。3年前でしょうか。フォルクスオーパーのライブ映像です。期待どおりの素晴らしい舞台でした。幕が開くと、ハンガリー風の憂愁を帯びた曲が鳴り、続いて軽快なチャールストンになります。美しい旋律の数々、情熱的な曲も、軽やかな曲もあります。出だしから、圧倒され、終りまで終始押され通しでした。色彩豊かな舞台、音楽と一体となって観る者を魅了する踊りと、待った甲斐がありました。そして、起伏のある話の展開に見入ってしまいました。 他にもDVDでいいので舞台を見たいオペレッタはいくつもあります。次が出ないか日々首を長くして待っています。 Die Herzogin von Chicagoあらすじ あと少し 2008年7月7日 7月です。周囲でもちらほらと夏休みの話が出ています。世間では、楽しい夏休みを想起させる季節に入ったわけですが、司法試験受験生は、大一番が近付き緊張が高まるころでしょう。 現行司法試験は、3つのタイプの違う試験から成り立っています。5月に短答式(択一式)、7月に論文式、10月に口述式があります。一つ一つに合格・不合格があり、合格者だけが次の試験に進めます。ただ、論文式の合格者の9割は口述式に合格するので、天王山は論文式でした。受験生は、論文式の合格を目指し、日夜勉強します。 年中朝から晩まで勉強している感のある司法試験の受験生ですが、実は、7月の論文式の試験を終えると、大抵は長い休みに入ります。論文式の合格発表は、2か月半ぐらい先です。合格していれば、口述式の試験が待っているので、その対策でもすればよさそうですが、合格しているかどう分からないのに、対策を立てるのは虚しいものです。不合格なら、また論文試験に向けた勉強をすることになりますが、合格しているかもしれず、論文式に向けた勉強も、やはり虚しいのです。 私は、論文式直後が、長い受験生活の中で、唯一心休まる時でした。発表は遥か先で、合否いずれかと気をもむこともありません。時代によって違いますが、暑い中、2日又は3日間、わけのわからぬ問題と格闘するのは、大変しんどいものです。それから、解放された直後は、天と地ほどの気分の違いを感じます。青い空と暑い気温が、解放感を掻き立てます。長い夏休みの始まりというのも、明るい気分でした。 受験生の皆さん、あと少し辛抱してください。 華やかでないパリ 2008年6月27日 印象派の絵画展には何度か行きました。そこで見るパリを描いた絵は、いずれも、華やかな街としてパリを描いています。通りに馬車が行き来し、美しく着飾ったパリジェンヌが道を歩いています。それほど背が高くない整った建物が街に並びます。セーヌにかかる橋は、川の風景と合った、優美な姿をしています。 このような絵と対照的なパリの姿を描く画家もいます。その一人が佐伯祐三です。佐伯祐三は、1898年に大阪の寺の住職の子として生まれます。東京で絵を学んだあと、1923年渡仏します。一時帰朝したことがありますが、1928年30歳で亡くなるまで、フランスで画家として活動しました。モディリアーニ同様、短い人生を絵画に捧げた人でした。 最近、佐伯祐三展に行きました。一挙に何点もの彼の作品を見られる貴重な絵画展でした。彼の描くパリは、華やかな雰囲気とは無縁です。壁にべたべたとポスターが貼られたとある街角、クリーニング店、食料品店、レストラン、工場のような庶民的な建物が描かれます。対象が、華やかでないだけではありません。全体が暗い色調で描かれます。その絵の印象を一言でいうと、「黒」となります。対象と色彩が合わさって、絵全体からは、猥雑さや、場末の雰囲気が、強く発せられています。 葉が落ちた冬枯れの木、いかにも寒そうな鉛色の空が描かれていることもあります。佐伯祐三は華のないところに美しさを見出したのでしょう。猥雑美、場末美というような変な言葉がぴったり合う絵の数々でした。 跡地巡り 2008年6月16日 大学に入った年の、暑い京都の夏に入るころでした。大学の講義中先生から、「せっかく、京都大学に入ったのに、吉田山にも登らずに卒業する人もいます。皆さんは、ぜひあちこちの寺や神社を夏休み中回ってください」と言われました。吉田山というのは京大のすぐ前にある小高い丘で、吉田神社があります。私は、元来神社仏閣が好きですので、吉田山に登るのはもちろん、京都市内の寺々、神社を回りました。 寺社回りと並行しながらしていたのが、「跡地」巡りです。京都には、数々の跡地があってそのことを示す碑が建っています。たとえば、京都の中心部の河原町通りには、「近江屋跡」という碑が立っています。ここは坂本竜馬が滞在中襲われた、醬油屋の近江屋があったところなのです。他にも少し先の三条通り沿いには新選組と勤皇の志士が死闘を繰りひろげた池田屋の「跡」という碑もあります。菅大臣神社には菅原道真の邸宅跡という碑があります。 いずれも「跡」というぐらいで、今は、別の物が建っていて当時の物があるわけではありません。当時の物を見ることができないことが、寺社回りと根本的に異なります。 では、このような跡地の魅力とは何でしょうか。一つは、歴史的事件や人物と自分の距離を、時空のうち空間だけ縮められることです。現場に立つことで、活字の知識でしかなかった事件なり人物なりを、身近に感じられます。もう一つは、無常を感じることでしょう。たとえば、先に挙げた菅大臣神社は、小さな境内をもつ神社に過ぎません。しかし、道真は大臣にまで上り詰めたのですから、往時は、きっと大邸宅があったのでしょう。栄耀栄華もまたはかないと感じざるをえません。 無常観は、日本の古典文学を読むとよく出てきます。源氏物語の紫の上は、光の最大の寵愛を受けながらも、その終りが来ることを恐れています。それは紫の上が、そして紫式部が無常観に貫かれているからでしょう。このような無常観は、きっと電子機器に囲まれて暮らす現代の日本人にも受け継がれているのでしょう。だから無常を感じることで、感動をするのです。 ただ、京都の跡地巡りは、かなり上級の(マニアックな?)楽しみ方のようです。学生時分、京都に来た友人を跡地に連れて行こうとしたら、「たまにしか京都に来ないのだから、有名な所に連れて行ってよ」と言われてしまいました。 埋木舎 2008年6月5日 彦根城の近くに埋木舎(うもれぎのや)という建物があります。大老井伊直弼が若いころ住んでいた住居です。今も当時の建物があり、庭から建物内を見学することができます。 埋木舎 大老井伊直弼と言いましたが、大老職についたのは偶然の産物でした。直弼公は、彦根藩藩主の子として生まれました。しかし、上に何人も兄弟がおり、直弼公はそもそも彦根藩の藩主になる可能性さえなかったのです。直弼公は、埋木舎で、学問、武術、茶道に勤しんで暮らしていました。 同じ藩主の子であっても、跡を継いだ兄とは大きな身分差があり、藩主である兄が埋木舎の前を通るときには、建物から出て土下座でお見送りをしたと言います。それが、上の兄が養子に出たり、死亡したりして、直弼公に藩主の座が回ってきたのです。 この埋木舎は、以前から何度か見学したいと思っていました。しかし、何故か駄目なのです。調べずに行ったら、定休日。定休日を外して行ったら、不定期の休み。他にも、近くに行っても彦根に行けるのが定休日しかなく、入れなかったこともあります。 これは、因果かと思いました。井伊直弼と言えば、安政の大獄です。上の紹介に書いた、親戚の清右衛門は尊王攘夷を唱えていたので、安政の大獄の際には、幕府は、属していた水戸藩に対し、清右衛門を出頭させるよう命じていました。清右衛門はどこかに行ったということで出頭させられなかったのですが、妻と従者が幕府により入牢させられました。 他方、清右衛門の方は桜田門外の変に参加しようとします。しかし、日を間違えたとかで、参加できませんでした。 いわば、直弼公と清右衛門は不倶戴天の敵どうしです。その清右衛門の親戚なので、拒まれているのかと思いました。 ところが、去年、やっと見学できました。普段は庭からしか見ることができないのですが、特別に内部の公開もしていました。直弼公が茶を点て、客に振る舞った茶室に座り、直弼公が講師を呼んで勉強したときに座った部屋のその座ったあたりに座りました。この部屋には、蝶番がついて内外に開閉する雨戸があります。閉めたとき、戸の一か所を押すと簡単に外に開くのですが他を押しても開かないという直弼公考案の雨戸です。直弼公がその箇所を押し続けたため、今では凹んでいます。私は、そこを押して雨戸を開けさせてもらいました。 150年の時を経て、まさか自分が捕まえようとした人間の親戚が、自室にいるとは、直弼公も思わなかったでしょう。 モディリアーニ 2008年5月28日 国立新美術館で開催中の「モディリアーニ展」に行ってきました。 モディリアーニというと、細長い顔、アーモンドのような目、長い首が特徴的です。そのような絵を一度に数多く見ることができ、観覧は貴重な体験でした。 あの特徴的な絵を観ると、これまでどうしても造形の斬新さに目が奪われてしまっていました。しかし、今回何点も観ていると、斬新な造形の中で、神経質そうな性格、優しそうな性格のような、人物の個性が描かれていることがわかりました。マリーローランサンの肖像画は、彼女が才能あふれる美人であることがよくわかります。私は絵の専門家ではないので、詳しいことはわかりませんけれども、そのような感じがしました。 モディリアーニと聞くと、すぐに「モンパルナスの灯」を思い出します。モディリアーニの伝記映画で、モディリアーニはジェラール・フィリップが演じていました。観たのは、中学の頃か、高校の頃で、以来一度も見ていないので、記憶は定かではありませんが、モディリアーニは悲劇の画家だという印象が強く残りました。貧困と失意のうちに、30代で死んでしまうのです。ジェラール・フィリップが30代の若さで死んだことと重なって余計に悲劇を感じます。実際のモディリアーニも30代半ばで病死します。しかも、その直後に身重の妻が自殺しており、本当に悲劇の画家なのです。 そのせいか、あの特徴的な肖像画の背景は暗い色遣いです。陽気なエネルギーは感じられません。ところが、そのような絵の中にあって、明るい太陽光一杯の背景を描く絵がありました。南仏に滞在したときに描いた妻の肖像画です。しかし、この絵を描いて間もなくモディリアーニは病死します。生の象徴太陽を感じた途端に死に至ったようで、人生の皮肉を感じます。 見知らぬ先祖 2008年5月22日 今もあるのでしょうか。小学校のときに先祖調べの課題がありました。先祖には、それまで全くの興味がなく。親からきいたこともありませんでした。課題が出たので、初めて親にきいて、先祖の名前や職業を知りました。ところで、そのとき調べた先祖は、父系の直系尊属です。どうも、先祖というと、父系の直系尊属を思い浮かべてしまいます。しかし、よく言われるように、先祖は、n代前は延べ2のn乗人だけいます。当然父系の直系尊属だけが先祖ではないわけです。 長ずるに及び、父系の直系尊属以外に誰が先祖なのだろううかと気になりました。そこで、手軽にできる先祖調べとして、戸籍をたどってみました。これにより、父方の祖母の祖父のような、これまで聞いたこともない先祖の名が判明しました。ただ、このやり方では、名はわかっても、人柄も職業も何もわかりません。実態が全く不明なのです。ただ、明らかなのは、自分がその人の血を引いていることだけです。 そのような実態のわからない先祖の一人で、5代前のおじいさんが近くに住んでいたことがわかりました。当時私は千葉県内に住んでいたのですが、千葉県は偶然住んだだけで、近くに親戚も何もないので、意外な事実でした。 ある日その地を訪ねて行きました。訪問の目的は、墓を見つけることでした。昔の人は住居の近くに墓をもつものです。墓がわかれば、さらなる先祖やまだ見ぬ親戚の情報が得られるかも知れません。そうするとそこからおじいさんの何かの情報を手繰れるかも知れません。幸い、その地域には寺が2か所か3か所しかなく、全部調べられそうでした。暑い夏の日、炎天下汗だくになって調べました。しかし、見つからず仕舞いでした。どこか別の所に墓があるのでしょう。子孫に血を残し、いずこかへ去って行ったようです。 何も収穫はなかったのですが、おじいさんと同じ土地をふみしめたという満足感はありました。その満足感を土産に帰ろうとしたとき、その地域の地酒の幟が出ている酒屋さんを見つけました。酒好きの私が買って帰ったのは言うまでもありません。その夜おじいさんも飲んだであろう地酒を飲みながら、あれこれとおじいさんの様子を想像しました。 誰もが知っているのに知られていない曲 2008年5月14日 近所にリラの花が咲きました。香りを調べるべく顔を近づけましたが、香りはよくわかりませんでした。 Wenn der weiße Flieder wieder blüht(白いリラの花が再び咲いたなら。フリッツ・ロッター作詞、フランツ・デレ作曲。) という1930年ころのドイツ語圏のポピュラーソングがあります。その一節に、「白いリラの花の香り」というところがあるので、香りを確かめたのです。 ところで、この歌の題名を見ても、知っている方はほとんどいないでしょう。ところが、聴くと日本人なら大抵は知っている曲なのです。それは宝塚歌劇団の「すみれの花咲くころ」です。上の曲は、「すみれの花さくころ」の原曲になります。 レコード全盛時代で古い話なのですが、戦前のヨーロッパで人気の高かったテナー、リヒャルト・タウバーの外国盤のレコードを集めていました。当時のSPではなく、SPからLPに復刻したものですが。彼はオペラ歌手なのですが、ポピュラーソングを多く残しました。 そのうちの1曲が「白いリラの・・」の曲です。当時私も「白いリラの・・・」の曲は知りませんでした。買ってきて聴いた彼のレコードから「すみれの花咲くころ」のメロディーが出たときはびっくりしました。気になったのは歌詞です。今では、外国のCDに歌詞カードがついているものがありますが、当時はありませんでした。ドイツ語の歌詞を必死にヒアリングしますが、私の能力ではわかりません。それでも、Frühling(春)、küss(キス)、deine roten Lippen(君の赤い唇)、Pärchen(恋人どうし)の単語が聴き取れ、どうやら春と恋の歌であるようでした。 歌詞がわかったのは大分あとのことです。 リヒャルト・タウバーの歌うこの歌は、今ではCDで聴けます。心躍る春の気分を味わえるでしょう。 名は似ているけれど 2008年5月8日 「お台場」と言えば、首都圏では有名な東京都にある観光地です。テレビ局、娯楽施設、飲食店とさまざまなものがあり、多くの観光客が訪れます。 横浜にも「台場」がありました。「台場」は海に浮かぶ人工島でした。幕末に、外国船からの我が国への侵略を防ぐために、松山藩によって建設されました。 台場は、大砲で外国船を撃退する役目を担わされていたのですが、大砲が実際に外国船を攻撃したことはなかったそうです。それどころか、外国船の入港を歓迎し、祝砲をあげていたそうです。戦争という殺伐とした目的で造られた台場が、友好のための施設になったとは、微笑ましい限りです。 台場は、やがて、横浜の開発の中で消えゆく運命をたどります。埋め立てにより、台場は陸の一部になります。台場の上にも土が置かれ、いまではすっかり地中に埋没しています。台場の跡には鉄道が敷かれ、建物が建ち、周囲の土地に完全に同化してしまいました。今行ってみても、そこに台場があったことは微塵も感じられません。わずかに、鉄道施設の下に当時の石組みが顔をのぞかせる程度です。 「お台場」と違い、「台場」は訪れる人はありません。「台場」は、人々に知られることもなく、静かに眠っています。 現在の台場の様子 横浜都市遺跡 2008年4月30日 横浜駅の西口(東京駅方面に向かって左)に出ると、バスターミナルがあり、ビルが林立し、多くの人が行き交う様子を見ることができます。ここが少し前までは海だったと知った時は信じられない気持でした。 広重の「東海道五十三次」の中に、「台の景」と題される絵があります。絵の右には、店が並ぶ東海道が描かれ、左3分の2には青い海が描かれています。海の上には何艘もの船が浮かび、中には大きな帆船もあります。その海こそ、現在の横浜駅西口一帯なのです。海は明治以降徐々に埋め立てられ、それに連れ現在の横浜駅周辺部の姿へと変化していきました。船の行き交う海が、わずかな間に大都会になるとは驚きです。 この他でも横浜は、埋め立てを通じて大きく変貌しています。観光客に人気のMM21地区も埋め立てによりできました。できてしばらくはほとんどがただの空き地でしたが、近年はマンションの建設が盛んで、多くの棟が立っています。 こうして移り変わりの激しい街なのですが、江戸末期から変わらず残っているものもあります。それが「象の鼻」です。「象の鼻」はクイーンエリザベス2世号も停泊する大桟橋から垂直に海に伸びた突堤です。江戸末期に造られ、船の荷の揚げ降ろしに使われました。その後、手は入れられているそうですが、江戸期から同じ場所にあり続けています。 開港当時の港の様子は、当時の錦絵により知ることができます。今では、街の様子はすっかり変わってしまっていました。そのような中、「象の鼻」だけが当時の街の様子を見せてくれます。土台は石ででき、海水に濡れて黒くなっています。古びた感じがして、江戸時代の雰囲気を漂わせます。 「象の鼻」は赤レンガパークからよく見えます。「象の鼻」の周辺部は再開発中で、そのうちもっと間近に見ることができるようになるのでしょう。現代的な横浜を楽しみながら、「象の鼻」を見て、開港時の街の様子に思いを馳せるのも楽しいものです。 私は意外と好きですが 2008年4月23日 真新しい黒いスーツに身を固め、地図を片手に道を歩く若者が目につきます。就職活動中の学生さんです。就職できるのであろうか、できるとしても希望の企業に入れるのであろうかと不安一杯になりながら、企業に向かっているに違いありません。 夢の内定を得るまでは、山があります。その山の一つが数学です。企業によりますが、面接相手を絞るために数学を含む学力試験を課すところがあります。私は予備校の講師時代、その対策として、数学の講座も担当していました。 数学を教えていたというと体がいいのですが、その内容は中学3年生までに習う数学、算数です。速度、濃度、仕事算、確率などなどで、誰でも勉強したことのあるものばかりです。しかし、ことが数学です。難しい、つまらない、できれば勉強を避けたい。日本で一番嫌われている科目です。このため、誰でも勉強したことのある数学でも、苦手な人は本当に苦手です。 しかし、数学なんて知らなくても生活には困りません。学生さんも、高校で文系コースを選び、以来何年間も数学と付き合わずに過ごしてきた人がいます。 なのにです。大学生活も終わりに近づいたところで、あのおぞましい数学の勉強をまたしなければならないのです。「数学が嫌だから文系に来たのに」と怨嗟の声さえ聞こえます。予備校ゆえ、勉強範囲を区切って学生さんの負担を軽減するようにはしています。しかし、義務教育時代数学の勉強を避け、人によっては高校時代勉強せずにここまで来たのです。学生さんが、いかに苦痛な時間を強いられるかは想像に難くありません。苦痛な時間の司会者たる私は、当然不人気講師の一人でした。 さっき見かけたリクルートスーツの若者も、今頃数学の試験に苦しめられているかもしれません。就職のお手伝いをしたことのある者としては、早く希望の企業の内定をもらい、リクルートスーツから普段着に替えて、残り少ない学生生活を楽しんでほしいと思うばかりです。 縁 2008年4月16日 不思議な縁はあるものです。 自己紹介に書いた清右衛門という人物は有名ではないのですが、たまに本に名を現わします。あるとき図書館で本を見ていると、彼の記事がありました。そこには、墓所の記載がありました。場所は「出島村○○」とあります。出島ときいて、一瞬長崎かと思いましたが、彼が水戸藩郷士であることから、水戸藩、つまり現在の茨城県下であろうと思って調べると、その地名がありました。 出島村○○は霞ヶ浦の湖畔にあります。早速、行ってみました。彼は、明治の声を聞くことなく、とある寺で切腹して最期を遂げます。ということは、墓所は寺であろうと考え、出島村の寺を探しました。なかなか見つからなかったのですが、自動車で流していて、寺の門を見つけました。通り過ぎたので降りて行ってみると、勘違いで、寺ではなく、民家でした。 探しても一向見つからず、しかし墓所の住所からするとその辺りに墓があるはずです。全く知らないお宅ですが、厚かましくも、そのお宅のチャイムを鳴らし、彼の一族のものであることを告げて、墓所の場所を尋ねてみました。すると、お宅の方が丁寧にお話ししてくださいました。場所はもちろん教えていただきましたが、なんとそこは清右衛門に養子を出した家系だというのです。偶然にも、一人の人物につらなる家系の人間が、100数十年の時を経て出会ったのです。 図書館で偶然見つけた記事から、勘違いを経て、あった出会いです。縁の不思議を感じます。 今回これを読んでくださった方も何かの縁です。今後とも当ホームページをよろしくお願いいたします。 高架のある風景 2008年4月9日 山下公園は、言わずと知れた、わが町横浜の一大観光スポットです。中華街、元町から近く、横浜港を一望でき、しかも海を間近に見られるとあって、大勢の人が訪れます。 今では跡形もなくなりましたが、以前は、山下公園内に海岸線に並行に走る鉄道の高架がありました。桜木町方面と山下埠頭方面をつなぐ貨物線の名残です。私は横浜に住んで10年以上になるのですが、来た頃は高架は残っていて、私にとっては、山下公園の景観の一部でした。それが、数年前撤去されてしまいました。私にとっては景観の一部ですし、歴史的遺物として置いておけばいいものをと思っていました。 ところがです。先日、横浜の鉄道写真の展覧会に行って知ったのですが、貨物線の高架を作る際、山下公園の景観を害するという批判があったそうです。そうすると、高架の撤去は元のあるべき姿に戻したともいえます。確かに、高架のせいで暗い雰囲気があったものが、撤去により公園が明るくなったように思います。山下公園が美しくなったのは事実です。 それでも、使われなくなって放置されていた高架は、どこか悲しげで好きでした。もっとも、鉄道施設に魅力を感じるのは、鉄道好きのなせる技で、普遍的なものではないのかもしれません。 パソコン 2008年4月3日 このホームページは、パソコンを使い自分で作っています。 前職の予備校に勤めだした頃、職場ではパソコンを当たり前のように使いこなしていました。しかし、私は家でパソコンを使ったことがあまりなく、何をどうしていいのか、職場で右往左往していました。データの保存場所という概念もなく、やみくもに保存しては、席の近くの人にデータを探索してもらっていたぐらいです。 それが今や、パソコンで映像を編集して、DVDを作ったり、このようにホームページを作るようになりました。特別得意というほどではなく、こつというのもおこがましいのですが、試行錯誤が大事です。新しいソフトを使うときは、適当に操作して何がどう変わるかを調べるようにしています。 パソコンはどう操作しても壊れないのが普通です。ただ、この間、壊れかけたパソコンを修復しようとして、却って壊したことがありました。壊れかけのときは、試行錯誤は要注意です。 | ||||||||||||