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 神奈川県弁護士会所属 弁護士 太宰 順一(だざい じゅんいち)


 作家太宰治と同じ苗字なので、よく親戚ですかときかれます。しかし、あちらは、ペンネームで、親戚ではありません。無関係かといえばそうでもなく、ペンネームは、我が家の苗字から取ったそうです。この話は、我が家では以前から伝わっていましたが、最近は本でも散見されるようになりました。多少なりとも縁はあるのですが、彼の作品はほとんど読んだことがありません。

 これに対し、幕末の志士、水戸藩郷士太宰清右衛門藤原天達は親戚(祖父の大伯父)です。といっても一部の人にしか知られていない人物です。                   

〈経歴〉

兵庫県神戸市出身

京都大学法学部卒

日本弁護士連合会消費者問題対策委員会委員

神奈川県弁護士会消費者問題対策委員会委員

神奈川悪質サイト被害弁護団

神奈川県弁護士会法律相談センター運営委員会委員

これまで、いろいろと書いてきましたが、今後はブログの方で書いていきたいと思います。

ブログは↓

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ブログは引っ越しました ↓

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日々あれこれ

養子縁組無効確認(2012年3月8日)

 ある日役所に行って、自分の住民票を取ろうと思ったら、「そんな人はいません」と言われたらどう思うでしょう。これは現実にあった話です。

 原因は、養子縁組でした。それも勝手に行われた養子縁組です。知らぬ間に見ず知らずの養父の養子にさせられていました。養子は、養親の苗字を名乗るのが基本ですから、勝手に養子縁組されたことで、知らないうちに苗字が変わっていました。元の苗字の自分の住民票を取ろうと思っても、そのような人はいないことになります。

 戸籍を見たら、見ず知らずの養子がいたというのもあります。養親がいる場合も、養子がいる場合も、勝手に縁組をしているのは、戸籍に記載された人自身なのか、第三者なのかはよくわかりません。また、養子縁組は何のために行われたのかもわからないのですが、私の扱った案件では、金を借りるのに利用した形跡があります。苗字を変えて、新しい人間を作りだし、その名前で金を借りたようでした。

 養子縁組は、届け出をしたら簡単にできるのですが、勝手にされた養子縁組をなかったことにしようとするとこれが面倒です。「勝手に養子縁組されたからなんとかしてほしい」と、役所に言っても何もしてくれません。裁判で、養子縁組が勝手に行われたので無効であると確認してもらわないといけません。

この裁判には、二つの種類があります。それは調停と訴訟です。通常は、調停から初めて、そこで無効が確認されないときは、訴訟で確認してもらうことになります。調停で確認してもらうためには、縁組の相手方である養親、養子にも出席してもらう必要があります。自分も被害者だというなら出て気もしましょうが、どこか後ろめたいところがあれば出てこないでしょう。こうなると、訴訟にならざるをません。調停は、申立てて1か月後に行われ、その後訴訟を提起してやはり1か月後に最初の期日がありという具合ですから、時間がかかります。

 もうひとつ、問題があります。申立までに時間がかかる危険があるのです。どういうわけか、勝手に縁組をしたかされたかわからないその人は、本籍を転々と変え、あるいは養子縁組や離縁を繰り返していたりします。調停も訴訟もそうですが、相手方の戸籍謄本(全部事項証明書)を提出しなければなりません。それに至るまでが長い道のりになることがあります。

 独学(2012年3月6日)

 
今、大学の秋入学が取り沙汰されています。入試は、どうも今と同じころを想定しているようなので、合格発表から入学までは、随分と時間があります。さて、入学までの時間をどう過ごすのか、あるいは過ごさせるのか、問題になってきます。

 折角うかったので、是非早く大学の勉強をしたいという人もいるでしょう。春入学なら、大学の講義で勉強するところですが、秋入学なら、まだ大学生ではないので、そうはいきません。でも、今は独学にいい時代です。

 今は知らないのですが、京大法学部は、一回生(関西では1年生をこう呼びます)のときには、専門科目を配点しないという方針でした。専門は、法律学と政治学で、別に講義に出るのは自由でしたが、試験を受けて単位をもらうことができなかったのです。専門以外の勉強を広くしておきなさいという、方針でした。

 私は、お言葉に甘えて、1回生のときは、法律の本はもたず、当然法律の勉強は一切しませんでした。よし専門以外の勉強をしようと意気込みました。法律とは最も遠そうな数学の本を買い込んだのです。見事に挫折しました。高校で勉強したことが書いてあればそこは意味が分かったのですが、少し新しい話になると全く意味が分かりませんでした。1回生のうちは何とか頑張ったのか、ほんの早い時期で諦めたのかわかりませんが、2回生以降は一切勉強はしませんでした。

 司法試験の受験勉強に明け暮れているうちに。時が経ちました。転機が訪れました(といっても、司法試験の合格ではありません)。放送大学の放送が始まったのです。放送大学の学生でなくとも、普通にテレビで講義を視聴することができます。1回生のときに挫折した数学の講義を観ました。実にわかりやすいのです。厳密さを追求するより直感を大事にしようという方針、平易な説明をしようという方針が合っていました。司法試験に飽きて法律以外の勉強をしたくなったとき、放送大学はよく利用しました。

 そして、最近は、自然科学系の本しか知りませんが、わかりやすい本がたくさん出ています。大学の教科書は難しいから、丁寧に説明してわかりやすくしようという執筆方針の本が多くみられます。

 9月入学になったとして、入学まで待てない人にはいい時代です。

昔の住まいを見てみると(2012年2月28日)

 新聞に売り家の広告が入っていました。昔住んでいたところのそばのことで、ネットを開いて地図で場所を確認していました。ついでに、昔住んでいた家はどうなったか調べようと思いました。昔の家は、壊されて跡地にマンションが建っていると風の噂で聞いていました。地図で見たのですがどう変化したかよくわからなかったので、ストリートビューで、様子を見ることにしました。

 昔住んでいた家は、戦前に建った家でした。今では日本がアメリカと戦争しいていたことを知らない若者も多いとききますが、戦前とはアメリカと戦っていた戦争の前のことです。正確には、戦中に建ったようですが、私が住んだころには十分に古くなった家でした。

 道路から敷地に入るのに、二つの門がありました。正門と通用門に相当する門です。律儀な方は、正門から入らず、草が茂り歩きにくいにもかかわらず、通用門から入っていらっしゃいました。平屋でした。和風の建築物で、襖を開け放てば16畳くらいの広さになる和室がありました。玄関脇には、応接室に使うための洋間がありました。天井にはシャンデリアを吊るしたときに美しく見えるよう、円形の飾りがついていました。玄関脇には女中部屋も備えていました。小さいながら庭もありました。住んだ時には、かなり老朽化した家で、壁の土がボロボロ落ち、部屋の柱と壁の間に隙間ができて空が見えるところもありました。でも、建築時は和洋折衷の美しい家であったことはすぐに想像できました。

 老朽化した家で、取り壊されるのは致し方のない家でした。マンションが建ったときいて、さもありなんと思っていました。

 ストリートビューで昔の我が家の跡を見ると戸建が建っていました。マンションが建っていると言われていたので、最初は目を疑いました。しかし、場所に間違いはありません。隣家は今も当時のまま残っていたからです。

 急に喪失感を覚えました。老朽化していたとは言え、もとは立派な家であったので、それに見合うものが建っていてほしかったのです。戸建が戸建に変わるのではなく、前の存在を超えた物に変わってほしかったのです。マンションなら、そして勝手に想像していたのですが、高級なマンションならあの家の生まれ変わりとして納得できたのです。事実を知った衝撃が、今も余韻を引いています。

 古人に学ぶ(2012年2月18日)

 江戸時代に書かれた耳嚢という本に面白い話が出ています。

 日本左衛門の一味に山伏がいました。3尺の金棒を巧みに扱って抵抗するために、役人は捕縛できませんでした。ある役人が山伏に扮して5尺の金棒をもって一味の山伏に近づいて、自分の金棒を見せました。一味の山伏は5尺の金棒を見たがって、3尺の金棒を役人に渡し、5尺の金棒を受け取りました。役人が隙を見て、3尺の金棒で打ちかかると、一味の山伏は、5尺の金棒で対抗しましたが、うまく扱えず、遂に召し取られたということです。

 この話の題は「武辺手段のこと」です。この話の妙味と言うのは、勇敢な戦いの中に絶妙の作戦があったことです。短い棒と長い棒があったときに、何となく長い棒の方が攻撃力に優れているように思います。ところが、それが真実であっても、使い慣れていない物は咄嗟には使いこなせないのでして、役人の山伏は、そこを利用しました。作戦の絶妙さに感心させられます。

 ところで、この話には、別の点で面白いと思ったことがあります。金棒で暴れられて困るというときにどうするかと言えば、最も単純な結論は、金棒を取り上げるということです。取り上げるというときに、普通に思いつくのは、盗むような方法です。しかし、盗むために忍び寄るのは、身辺を警戒している一味の山伏ですから難しそうです。そこで、役人の山伏は、金棒の交換によって、一味の山伏の金棒を取り上げたのです。交換というのが実に巧みです。ただ渡せと言っても丸腰になるのを嫌って渡さないかもしれませんが、交換であれば丸腰の問題はありません。しかも、一味の山伏は、一見すると強力な金棒を手に入れられるのですから、交換することに気を許してしまうのです。

 計算しつくされた行動を真似るのはなかなかできるものではありません。しかし、目的達成の手段にはいくつかあるということを肝に銘じることはできそうです。そして発想の転換は死命を決するということもです。

人はそれぞれ(2012年2月13日)

 年末にNHKで「新選組血風録」を放映していました。展開のテンポのいい面白いドラマでした。

 このドラマで、重要な鍵を握ったのが、局中法度でした。局中法度は、新選組内の規律を守るための規則です。違反すれば、切腹という厳格なものでした。いくつかある規定のうち、目を引くのは「士道ニ背キマジキコト」です。

 士道に背いたこと、武士道に反すれば隊士には切腹を強いている以上、局中法度を作った局長の近藤勇も武士道に反すれば死んでもいいという気構えがあったのでしょう。強力な気構えです。ここまでの思いを持たせる原因は、近藤が、自分は武士ではないのではないかとの不安をどこかにもったことではないでしょうか。

 新選組は武士の集団ですが、隊士の出自は必ずしも武士とは限りません。局長の近藤自体、もとは調布の農民でした。武士としての出自がないことから、逆にあるいはそれだけに武士たらんとして武士道を純化、先鋭化したとは言えないでしょうか。

 この発想の根源は、冒頭の紹介の文に出てくる私の親戚で、幕末の志士である清右衛門にあります。清右衛門は、商家の出です。水戸藩郷士の地位を金で買って武士になりました。清右衛門は、尊王攘夷の思想を持っていたことから、幕府の追うところとなっていました。1864年に、幕吏の縄目の恥は受けまいとして切腹しました。問題は、この切腹です。武士は、切腹の際には介錯を頼みます。切腹だけで死ぬのは大変な苦痛を伴うからです。ところが、清右衛門は、どうも介錯を頼んでいないようなのです。そうすると、清右衛門は、武士でもしないような仕方の切腹をしたことになります。この背景には、商家出身の清右衛門が、武士たらんとして武士道を先鋭化させたことがあるのではないかと思うのです。武士である以上この程度の苦痛には耐えられると思ったのかもしれません。その結果、清右衛門は、随分と苦しい最期を迎えてしまいました。

 正当性に対する不安と言うものは現代でもありそうです。出自から来る不安は現代にはないでしょうが、たとえば専門家にはなったが、大学ではその分野の専門教育を受けなかったので、何か欠けてはいないかというような不安はあるものです。このようなとき、近藤や清右衛門のように、正当性をもった人物の理想像を作って、それを追求しようとするかもしれません。

 さてこれに対する評価です。当初は、清右衛門の苦しい最期を思い、辛いだけなので、やめるべきだとの結論を出そうと思いました。

 しかし、近藤勇を見ていると、果たしてそういえるのかとの思いにも達しました。近藤は、新選組が最後に流れ着いた下総の流山で、官軍のもとに出向き、斬首されます。官軍に出向いたのは、流山で官軍とことを構えれば、住民に迷惑がかかると考えたからだという話があります。出向けば殺されるかもしれないのに、命を顧みず住民を守ろうとするのは潔い態度です。近藤は、武士道を最後まで守ったのです。彼なりの生き方、美学を貫いたのです。

 正当性に疑いを持った人が、理想像に邁進することは、本当に苦痛なのでしょうか。本人は、満足しているように思うのです。人の生き方はそれぞれで傍から見て苦しそうに見えるからと言ってとやかく言うべきでないという、何ともありきたりな結論に達しました。

節分(2012年2月6日)

 節分も過ぎました。子供のころ、節分の日には豆まきをしました。今も世の中ではこの習慣が廃れていないようで、豆まき用の豆がこの時期には売られています。新しい習慣で、恵方巻きというのもあります。大学のころは、まだ関西辺りにとどまっていた習慣ですが、いつのころからか関東にも進出してきました。事務所のある関内周辺では、豆まきはなさそうですが、恵方巻きは、コンビニや駅の飲食店で売られています。

 節分は、このところ1年近く前から法律相談の予定が入っています。今年もそうでした。仕事がなければ、またいつかは行ってみたいのが、節分の日の京都です。

 寺社が多く、行事の多い街であることは確かですが、節分のときはとりわけ行事が多くあります。何かやっていそうな元旦は、むしろ何もなく、節分の方が賑やかです。寺社により何をやるかは異なりますが、北野天満宮、平安神宮、千本釈迦堂では狂言の奉納が行われます。六波羅蜜寺では、六斎念仏が行われます。笛や太鼓を鳴らしながら、歌うように念仏が唱えられます。調子のいい音楽に唱え手は踊ります。観て聴いて楽しい念仏です。他にも、聖護院では鬼の出てくる寸劇が行われます。聖護院の前にある須賀神社では、古式の装束に覆面をした不思議な雰囲気の人が懸想文を売っています。このように節分の日は、京都は見どころが満載になります。

 節分の楽しみを知ったのは、京都で過ごした大学時代でした。下宿の近くに廬山寺という寺がありました。ここで、鬼踊りがあるということでした。節分の日に出かけてみたのですが、実に楽しいものでした。鬼がユーモラスに踊りながら寺の本堂に入って行きます。しばらくすると、祈祷の威力でもって、鬼がきりきり舞いしながら寺から弾き飛ばされます。踊りの後は、豆まきが行われます。袋入りの豆が撒かれ、学生であった私も一つ手に入れました。

 その後もこの楽しさが忘れられず、鬼踊りを見に行きました。学生の時もあったのでしょうけれど、鬼踊りの後は、鬼と子供たちとの記念撮影の時間になっていました。子供には本物の鬼に見えて泣き出す子もいます。よくできた鬼です。厄の権化として退治された鬼が、今度は子供と仲良く写真に納まるのは。何ともほほえましい限りです。鬼踊りから始まりそのあとも、いい時間が流れています。

 今年は、横浜で一日を過ごしました。しかし、京都の節分を思うと、楽しい記憶に心温まる思いでした。
 

清盛の風貌(2012年1月30日)

 NHKの大河ドラマの「平清盛」の清盛は、随分独特な雰囲気の風貌をしています。髪は、髷を結わず伸び放題で、女物の着物のようなものを着ています。当時の男子はまげを結い、外出時には烏帽子を被っていたはずですが、マツケン清盛はお構いなしです。女物の着物を着ているところは、うつけといわれた信長の姿を彷彿とさせます。武士でありながら、太政大臣にまで登りました。大輪田の泊りを修築し、宋との貿易を振興させもしました。従来の発想とは違う新発想があったからこその清盛の人生であり、マツケン清盛は、従来の社会を破壊する新しい人物像として描かれているのでしょう。

 歴史上の人物の風貌は、本当のところはよくわからないものです。幕末維新以降は写真があって、風貌がわかる人物も少なくありませんが、それ以外は、写真は残っていません。絵や像が残っている場合にそこから風貌を判断することになるのですが、絵や像が本当にその人の風貌を忠実に表しているのかはよくわかりません。本人が生きているうちに忠実に風貌を写し取ったとは限らないからです。京都にある六波羅蜜時には清盛の像があります。僧形で経を読む姿です。清盛は出家しましたから、このような姿と雰囲気を出していたかもしれません。しかし、清盛の没年が1181年であるのに対し、像の制作が鎌倉時代です。風貌を覚えていた人が作ったか、風貌が語り伝えられていてそれに基づいて作ったかはわかりませんが、実際の清盛にどの程度似ているかはわかりません。

 本当のところがわからない以上、文学作品の登場人物と同じく、歴史上の人物の風貌は、各人の想像の世界にしかありません。人それぞれの風貌を心に思い浮かべればいいのですから、マツケン清盛ももちろんありなのです。

 それでも清盛は、いろいろ意見が出るかもしれません。前に観た清盛の姿がこびりつくからです。大河ドラマでも、「義経」では、渡哲也演ずる清盛がありました。西部警察の大門のイメージがどこかに重なりながら、実に恰好がよい清盛でした。本当の清盛が、硬派な男前であったかどうかはわかりませんが、私にとってはありなのです。そもそも清盛が男前であるという印象は、大映の映画「新・平家物語」の市川雷蔵演ずる清盛の影響でしょう。市川雷蔵は、どの役を演じても貴公子の香が漂います。清盛は、武士とは言え貴族でもあったのですから、ぴったりの印象です。この映画では、清盛は、強訴に来た比叡山の神輿の鏡を矢で射抜き、僧兵を退散させます。神輿の鏡を射抜くという行為は、当時の誰にも出来なかったことでしょう。だからこそ、僧兵は神輿を担いで強訴に及ぶのです。ここでの清盛は、神をも恐れぬ、そして従来の秩序にとらわれずそれを破壊する新しい人物として描かれています。貴公子然としていて、あわせて強さを感じさせる雷蔵清盛が、観ていて心地よいものがあります。

 マツケン清盛に魅せられた人は、今後の清盛像に物足りなさを感じるかもしれません。

金色夜叉(2012年1月9日)

 「金色夜叉」は、尾崎紅葉が書いた作品です。作者、作品名が有名であるだけでなく、その一場面が非常に有名な作品です。その場面とは、言うまでもなく、熱海の海岸で、主人公貫一が、主人公お宮を足蹴にする場面です。足蹴にする際に、貫一が、お宮に「ダイヤモンドに目がくらんだか」というようなことを言ったということも世間に知られていることでしょう。

 ここまで、有名な作品ではありますが、私は、これまで読んだことがありませんでした。作品に興味を示すこともありませんでした。ところがです。JR京浜東北線の車両の中には、モニターが付いていて、そこでCMや番組が流れています。その中に、文学書を紹介する番組がありました。「金色夜叉」も取り上げられていて、これを見て以来、ふと気になりました。そこで、本屋に行って、買って読んでみました。

 実に面白い作品です。貫一、お宮を始め、登場人物たちがどうなっていくのかが気になり、一気に読んでしまいました。文体もきれいです。地の文は、文語体で書かれています。調子のいい響きが続きます。誰もが知っている熱海の海岸の場面は、会話文が続きます。会話文は口語体です。有名になるだけあって、迫力のある文です。目の前で劇が演じられているように、場面の映像が目に浮かびます。貫一が悔し涙を流しながら話している姿が見えます。登場人物も目に浮かぶようで、お宮は清楚な感じの美女です。中篇以降に出てくる美人の女高利貸しは妖艶です。

 「金色夜叉」は、続編が作られ、続新金色夜叉で終わります。終わった時点では、お宮に捨てられて暗い精神で生きてきた貫一に明るさが戻りました。将来への希望が感じられます。お宮は悔い通していて、逆につらい人生が続くことが予想されます。これで完結したと言われればそうかとも思うのですが、この作品は未完であるそうです。作者尾崎紅葉が、病に斃れてしまったからです。作者は、登場人物たちをどうしようとしていたのでしょうか。貫一やお宮がどうなっていったのか気になります。しかし、これは二度と解決しない永遠の謎です。

受験勉強の知識(2012年1月2日)

 書店に行き、棚を眺めていました。岩波文庫の「ガリア戦記」が目に入り、何となく読みたくなり買ってきました。

 「ガリア戦記」は、カエサルが書きました。このことは高校の歴史で学びました。しかし、何が書かれているかは、全くというほど知りませんでした。名のみ知り、中身を読んだことがなかったからです。

 「ガリア戦記」に限らず、著作物と著者名を知っているものの、内容を知らないということは結構あります。高校時代、受験に必要と言うことで、世界史、日本史、国語の勉強の際に、著作物と著者名の組み合わせを覚えました。しかし、覚えた著作物を読むことはなかったからです。受験勉強で時間がなかったか、知識として覚えただけで満足で、そこから進んで内容に興味を持たなかったから読まなかったのでしょう。

 そうではありながら、著作物と著者名を覚えはしても著作物を読まない姿勢には、違和感を覚え続けました。著作物は、読むことが大切です。読んで、情報を得、感想を抱くことに、著作物の存在意義があるはずです。名前を覚えるだけでは、重要な部分がすっぽりと抜け落ちている気がしてなりませんでした。このため、高校時代かその後の近接したころであるとは思うのですが、志賀直哉の「暗夜行路」、太宰治の「斜陽」などを読みました。すっぽり抜けた部分を埋めようという意識に導かれていました。

 「ガリア戦記」が今頃になって気になったのも、同じ意識のなせる業であることは間違いありません。でも、今頃になって「ガリア戦記」を読むことになったことを考えてみると、高校時代の学習態度は別段問題がないのではないか、否、むしろいいことではないかと思うようになりました。高校時代に、カエサルが「ガリア戦記」を書いたことを覚えたからこそ、「ガリア戦記」に興味を持ち、今読むことになったのです。そして、これまで知らなかった、ガリアの様子、ガリアにいる諸部族とカエサルの戦闘の様子を知ることが出来ました。10代で入れた知識が、遠い未来の自分に作用しました。

 著作物と著者名をひたすら覚えるような勉強は、大事な部分を欠いた不十分な作業に見えたのですが、実は役立つ知識を入れていたことになります。学校教育は、結構うまくできていたといえます。

堺(2011年12月24日)

 先日、NHKで、大河ドラマ「黄金の日々」の第1回を放映していました。

 「黄金の日々」は1978年に放映された大河ドラマです。一代で豪商になった呂宋(るそん)助左衛門の人生を描いています。ドラマは、織田信長、豊臣秀吉の勃興、自由都市堺の命運、助左衛門の友人たちとの友情など、さまざまなテーマが絡み合って進行します。助左衛門役の市川染五郎(現松本幸四郎)他、丹波哲郎、鶴田浩二、川谷拓三、根津甚八、栗原小巻、夏目雅子と豪華なキャストでした。

 第1回は、堺に信長軍が迫っている場面が描かれていました。堺は、海外貿易で栄えた町でした。そして、豪商36人からなる会合衆が合議で町の統治を行っていました。堺は西に海を置き、北、東、南に堀を設けていました。外部と切り離された空間を自主防衛していました。信長は、堺の支配を目論見、矢銭を堺に要求しました。ドラマは、堺の自治を守るために、豪商今井宗久、その命を受けた助左衛門らが信長に掛け合おうとする姿が描かれていました。

 堺の自治は、織田信長、豊臣秀吉により終焉を迎えさせられます。信長の要求した矢銭の要求は退けますが、代官の派遣を呑まされます。秀吉の時には、完全に堺は秀吉に支配されました。秀吉は、堺の堀を埋めてしまいました。堀を埋められて滅んだ豊臣家に因縁を感じます。

 当時、「黄金の日々」を観て、堺の自治に大いに興味を持ちました。日本の歴史を観たとき、合議制により自治権をもっていた町と言うのは、特殊な存在です。その存在が、力による支配が当然の戦国の世に実現していたことに、なんとも不思議な感覚がありました。合議による統治という発想が昔の日本人にあったということも驚きでした。

 堺を見てみたいという思いが強くなりました。会合衆により統治された堺は、今は(と言っても1978年当時です)どうなったのであろうかと、大変に興味が湧いたのです。いつか堺に行こうと夢を持ちました。

 その夢ですが、いまだに実現していません。「黄金の日々」が終わった後、ドラマの登場人物で川谷拓三演ずる善住坊が現代に現れて堺を巡るという番組がNHKで放映されました。堺の街の紹介番組です。そこでは、会合衆のいたころの街は全く残っていないとのことでした。堀は豊臣秀吉が埋めたので、残っていないのは当然ですが、どうも現代の普通の風景になっているようでした。見に行こうと言う意欲がなくなってしまいました。

 堺のことは、最近では、大阪都構想の話とともに名前を耳にするようになりました。しかし、戦国の世に花開いた自治都市への関心は湧きませんでした。ところがです。先日観た「黄金の日々」で、昔抱いた堺への強い興味が甦りました。何もなくとも、昔を偲びに堺に行ってみたくなりました。

方言(2011年12月18日)

 パソコンで文を作っていました。人を背負った状態を表すために、人を「おぶる」と打ち込みました。いざ漢字変換をしようとするとうまくいきません。漢字でどう書くのか辞書で調べたのですが、そのような言葉は載っていませんでした。このとき初めて「おぶる」が方言であることに気づきました。「おんぶする」という言葉は共通語でしょうから、これに似た言葉で「おぶる」と言うのも当然共通語かと思ったら、さにあらずでした。

 同郷人と話すならともかくとして、普段は、京阪神地方の方言は使わないようにしようとしています。まして、文章を書くときは、共通語でしか書かないので、方言を使うつもりは全くありません。

 確かに、「あかん」、「ほかす」(捨てる)の類の言葉は、容易に排除できます。明らかに、共通語ではないからです。どうして明らかなのかと言えば、同じ発音をする語彙が共通語にはないからです。しかし、方言には共通語にも同じ発音をする語彙があり、こちらは曲者です。

 しかもこの手のものは意外とあるものです。たとえば「におう」という言葉があります。「百合がにおう」とすれば、共通語です。ところが「百合をにおう」という言い方をすると方言です。「におう」を「嗅ぐ」の意味で使います。「ちびる」という語は、「おしっこをちびる」と使えば、共通語です。しかし、「靴底がちびる」という言い方があって、こちらは方言で「ちびる」を「すりへる」の意味で使います。「いけいけ」という言葉は、共通語では「行け行けどんどん」として使いますが、「道が混んでるさかい、バスで行っても歩いても着いたらいけいけになる」のような使い方をします。等しくなるという意味です。

 また、固有名詞を一般名称に使うときにも方言があります。読んでいる方は、絆創膏をなんと呼ぶでしょうか。私は、「サビオ」と言います。私は、これは全国共通の呼称だと思っていましたが、考えてみると関東ではこの呼び方を聞いたことがありません。どうも、これも方言らしいのです。これは商品名ですから、まさか方言とは思わなかったのですが、このようなところまで方言が忍び込んでいました。

 言い回しにも、地方の特色があります。食事を十分にいただいたら、「お腹が大きなった」と言います。京阪神地方以外では、「お腹が大きくなる」とは、「妊娠する」という意味です。他の地域の人がきくと、言った人が男性なら、きっと滑稽な気分になるでしょう。女性が言うと、本当に勘違いされそうです。昔ですが、山陽本線の明石駅だったと思いますが、駅にペンが備え付けてあって、そこに張り紙がしてありました。「せいぜいお使いください」と書いてありました。「せいぜい」は共通語では、「せいぜい後悔するのだな」というような消極的な使い方しかしません。積極的な使い方をするところに地方色があります。

 共通語から取れる意味と全く同じであるにかかわらず、方言になると言うものもあります。宴会で、お皿に一個だけ料理が残っていて誰も手を付けようとしない時に「みんな『遠慮の塊』や」と言います。聞き間違ったら「ええ耳してるわ」と突っ込みます。暢気なこと言っている人に「長生きするわ」と突っ込むと言うのもあります。各々の意味は、共通語から取れる意味そのものです。

 昨今方言はテレビの影響でなくなりつつあると言われます。「かんてき」と言っても「七輪」を指すとわかる人は、私の世代でもほとんどいないかもしれません(大学時代に友人にきいても誰も知りませんでした)。しかし、曲者系の方言は、共通語に近いために、言葉の置き換えが起きず、むしろ今後も残っていくのかもしれません。そして、方言を排除して話そうとしても、方言とは気づかず話してしまい、相手の耳に入り込みます。曲者系方言は、しぶといのです。

ロートレック展(2011年12月12日)

 三菱一号館美術館に行き、ロートレック展を観てきました。

 ロートレックと聞くと、私は、踊り子や俳優のポスターを思い浮かべます。本展でももちろんポスターの出展はありました。しかし、ロートレックにとって、そのようなポスターは、作品の一分野に過ぎないことが本展でわかりました。リトグラフを制作しても、地味な絵もありましたし、雑誌の表紙のデザイン、メニューのデザインなどもありました。本展では、ロートレックの多様な作品を観ることができました。

 本展では、ロートレックの生活にも光を当てています。ロートレックが友人や家族と一緒に写っている写真、ロートレックが日本の衣冠束帯に身を包み、おどけた表情で写っている写真も展示されていました。また、ロートレックには親友のジョワイヤンがいたことも、本展は示します。ロートレックは、ジョワイヤンを描き、その絵も展示されています。ジョワイヤンは、ロートレックの没後、作品をまとめて収蔵する美術館の設立に尽力したことが紹介され、二人の間には強い友情があったことが伺われ、心が打たれます。

 ロートレックの全体を知ることができる展覧会です。その意味で、興味深い展覧会でした。

 ところで、単に私の趣味の問題ですが、華やかなポスターが好きです。色彩の豊かさ、人物の力強さが感じられます。その踊り子の踊りを観たい、俳優の演技を観たい、歌手の歌を聴きたいと言う気にさせます。

 ロートレックの数ある作品のうちポスターに興味が湧くのは、あるいは、大昔に観た映画「赤い風車」の影響かもしれません。「赤い風車」はロートレックを描いた作品です。筋は忘却の彼方に行ってしまいました。ロートレックが高貴な出でありながら、夜の街に現れていたことの印象しかありません。実際、ロートレックは貴族の出で、歓楽街に出入りしていたようです。

 歓楽街に出入りするという印象が、歓楽街の出し物を題材にするポスターに興味を持たせたのでしょう。19世紀末のパリがどのようであったか知る由もないのですが、ポスターを観ていると、店の喧騒や、照明の明るさや、人々の華やかさを感じます。ロートレックのポスターの楽しいところです。


山の辺の道(2011年12月5日)


 

 山の辺の道は、奈良県にある道です。古代の道の跡と言うことですが、いまでは散策ができるように整備されています。南は桜井市から北は天理市まで伸びています。

 初めて、山の辺の道を歩いたのは、大学の4回生の3月でした。南の端から歩きました。道のある場所は、家の裏手であったり、民家の間であったり、山の裾であったり、畑の間であったりします。鄙びた雰囲気に満ちていました。時は春で、菜の花が咲き、桜が咲き、鶯が鳴いていました。春の少し湿った暖かい空気が体を包みました。静かな道でした。歩いていて、本当に気持ちのいい道でした。

 春の山の辺の道に魅了されて、その後も春に何度か歩きました。大学の時に体験した気持ち良さをいつも感じていました。

 では、秋はどうなのであろうか。紅葉が見られ、春とは違った光景が見られるのではないか。このような気持ちから、先日山の辺の道に行きました。いつもは桜井から北上します。大体、崇神天皇陵あたりで散策を終えます。今回は、崇神天皇陵の少し北にある長岳寺から南下していきました。

 長岳寺は紅葉の名所です。しかし、行ったときは色づきがよくありませんでした。よく知られているように、紅葉は、秋の冷え込みがないといい色になりません。今年は、いつまでもだらだらと気温が高いままでした。

 紅葉は、残念な結果でしたが、秋の山の辺の道は、素晴らしい光景でした。黄色く色づく木々、柿の実、柑橘類の実の色彩が、澄んだ青空の青と相まって、美しい景色になっていました。澄んだ青空が秋らしいのです。春は湿った空気になっています。春も空気のきれいな山の辺の道の空はきれいですが、秋の空気は湿度が低いために、空が一層澄んでいました。山々の景色も澄んだ空気のせいで、くっきりと木々の葉が見えました。鄙びた雰囲気と秋の景色が、心地よさを醸成していました。

 桧原神社に来たとき、15時になりました。気温が下がってきましたので、散策はここまでにしました。いつまでも歩いていたい、秋の山の辺の道でした。

南蛮美術(2011年12月1日)

  東京のサントリー美術館で開催されている「南蛮美術の光と影」展に行きました。

 目的は、神戸市立博物館蔵の泰西王侯騎馬図屏風を観ることでした。初めて見たのは、20年以上前です。神戸市立博物館で観ました。懐かしくてまた観に行ったのです。

 今回観ても当時同様魅力的な図屏風でした。この図屏風は、神聖ローマ皇帝とトルコ王の戦い、ロシア皇帝とタタール汗の戦いが描かれています。王同士の一騎打ちの図です。王侯らしく、皆色彩豊かな豪華な衣装を身にまとっています。顔立ちは高貴です。全員馬上にありますが、馬は力強く駆け寄ります。トルコ王は、剣を左に構え、神聖ローマ皇帝の右横面を打とうとし、対する神聖ローマ皇帝は剣で応じようとしています。大変に躍動感のある絵です。

 大昔に観た絵に再会できて満足でした。しかし、本展は、それだけでなく、南蛮人の描かれた図屏風を何点か観ることができ、こちらも興味深いものでした。

 ある図屏風には、左隻には、どこかの南蛮の国が描かれ、右隻には南蛮船が来訪し、下船した南蛮人が日本の街を歩く姿が描かれていました。右隻の南蛮人たちは、街にある店を利用しています。街には南蛮寺があり、中では礼拝が行われています。

 戦国時代が終わりに近づいたころ、南蛮人が訪れました。南蛮人は、きっと図屏風にあるように国内を、今の外国人観光客と同様に、歩いていたことでしょう。日本人は、南蛮人に触れ、また南蛮人のもたらす文物に触れていたはずです。図屏風には、檻に入れられた豹が描かれているものがありましたが、珍奇な物を目にし、日本人は新鮮な感覚に捉われていたことでしょう。

 日本は鎖国時代に突入し、外国人は出島でしか活動できなくなります。戦国末から鎖国までの短い間しか、南蛮図屏風にあった世界はなかったことになります。

 南蛮図屏風は、短くはあったけれど、南蛮人やそのもたらす文物に自由に触れられた時代を描いています。南蛮図屏風を観ながら自由な風も感じました。

法然と親鸞(2011年11月22日)

 「法然と親鸞展」に行きました。東京国立博物館で開催しています。今年は、法然の800回忌、親鸞の750回忌でそのための企画のようです。法然、親鸞の生い立ちから、宗教的活動、そして彼らを継いだ人たちの活動がわかる展覧会でした。

 当然と言ってみれば当然なのですが、浄土宗にせよ、浄土真宗にせよ、一日でできたのではありません。法然、親鸞は、今では鎌倉仏教界の巨星ですが、生れ落ちて、すぐに巨星であったのではありません。

 法然は、美作の国で生まれました。幼い時に父親を夜襲でなくします。そして、比叡山に登り修行するのですが、念仏で人を救うとの考えに達して、比叡山を下ります。新しい仏教は、旧仏教勢力の睨むところとなり、法然は流罪にされてしまいます。数年後、法然は赦されますが、帰京してほどなく亡くなります。

 親鸞は、貴族の子弟として生まれます。世俗世界での立身出世も可能であったのでしょうが、剃髪して僧侶になります。やはり比叡山で修業しますが、比叡山を下りた法然の弟子になります。親鸞も、法然と同じときに流罪にされてしまいます。親鸞も数年後に許されますが、配流先の越後から常陸の国に行き、布教をしました。

 今では、浄土宗は知恩院と言う立派な寺をもち、多くの人が信徒となっています。浄土真宗は、二派に分かれ、それぞれ東本願寺、西本願寺をもって、やはり栄えています。ここに至る道筋の始まりには、法然や親鸞の苦労があったことになります。

 展覧会では、二人の自筆の書も出ていました。学校の歴史で、知識として暗記した人物の生きている様子に触れられる展覧会でした。

 

長谷川等伯(2011年11月11日)

 出光美術館(東京)で開催中の「長谷川等伯と狩野派」を観に行ってきました。

 長谷川等伯は、桃山時代に能登で生まれ、京に上って活躍した画家です。狩野派は、室町時代から江戸時代まで代々続いた画家の一派で、等伯が京に上ったころはすでに大いに活躍していました。等伯は、一代で、狩野派に意識を指せる存在となりました。

 等伯の絵は、これまでそれほど観たことはありません。京都の智積院、本法寺、東京国立博物館で、3、4点を観たことがあるだけです。今回は、等伯を目指して展覧会に行きました。

 本展では、3点だけ、等伯の作品が展示されていました。3点とも屏風絵です。竹虎図屏風、竹鶴図屏風、松に鴉・柳に白鷺図屏風でした。等伯の絵には彩色画もありますが、今回の3点はどれも水墨画です。

 竹林図屏風は、竹と虎が描かれています。右には何かを狙う虎、左には猫のようにくつろぐ虎が描かれています。いずれもの虎も、たくましい筋肉を帯びていて、力強さを感じます。それでいて、虎の表情には愛らしさがあります。

 竹鶴図屏風は、竹と鶴が描かれています。遠くの竹が薄く描かれ、靄が立ち込める竹林に鶴が立つように見えます。東京国立博物館にある松林図屏風でも、霧に霞む松林が描かれています。水墨画で霧や靄を描くことは、等伯は好きなのかもしれません。白黒の画面に霞んだ景色が描かれると幽玄の雰囲気が漂います。

 松に鴉・柳に白鷺図屏風は、春を表す鴉の雛、冬を表す白鷺が描かれます。親鴉が巣にいる雛を育てているところが右に描かれ、雪の中にたたずむ白鷺が左に描かれます。一連の絵に、一つの季節だけを描くことをしないわけです。このような絵を観ると、日本人の美意識を強く感じます。日本人は、古来より、季節の変化とそれに伴う景色の変化に美を感じてきました。等伯は、この美意識を表現したのでしょう。

 等伯の絵はこのように数が少なかったので、もっと点数があればよかったという気持ちはあります。しかし、今回のもう一方の主役である狩野派を含めた画家の屏風絵は総じて、絵の力強さをひしひしと感じさせるものでした。おおいに満足した展覧会でした。

 気に入った店はいつまでも(2011年10月30日)

  飲食店の出店、閉店は日常茶飯事です。事務所のある関内でも、その光景はよく見られます。イタリア料理店が2軒閉まり、別の店が入りました。中華料理屋が閉まり、別の中華料理屋が入りました。

 特に思い入れがある店ではなければ、よくある話だと思うだけですが、興味があった店が閉店になると寂しいものがあります。

 銀座に、ケテルというドイツ料理の店がありました。1回だったか2回だったか行ったことがあります。料理で印象に残っているのは、タルタルステーキです。生の牛肉の料理です。後にも先にもタルタルステーキは、これしか食べたことがありません。当時肉の生を食べたことがなく、特に印象に残っているのかも知れません。給仕をしていたのは、ドイツ人と見られる若い女性でした。どれを取ったらいいかわからず、飲み物か、食べ物か何かを「推薦してください」と言ったら、「推薦」の意味が分からず困っていました。そのころは知りませんでしたが、「推薦してください」は、Empfehelen Sie bitte!(エンプフェーレン ジー ビッテ)と言えばいいのですね。今度行ったらこのセリフを言おうと思っていたのですが、いざ行こうと思ったらとうの昔に閉店していました。

 京都に、フィンランド料理の店がありました。名前は「フィンランディア」でした。フィンランド料理は日本でも珍しいのではないでしょうか。キャビアをじゃがいもにつけて食べる料理が印象的です。キャビアは高級との印象がありますが、値段は高くはありませんでした。イエローキャビアだったからでしょうか。トナカイの肉も印象に残っています。明るく感じのいい店で、値段も全体に高くなく気に入っていましたが、こちらもとうの昔に閉店してしまいました。

 さて、事務所の近くにもお気に入りの店があります。知人と行ったり、家族と行ったりしています。先日も友人と行ったばかりです。和食の店で、出汁が効いた料理、あっさりした味付けであるもののコクのある料理が出されています。そのお店は、閉めはしないようですが、店のコンセプトを変えるそうです。別にそれだけなら構わないのですが、経営者のブログを見ると、経営的に問題があることが書かれています。店の内容を変えるのは、そのせいのようです。店が変わろうとも、いい料理を出していた大将が残り、いい料理を出し続けてほしいと思うばかりです。

インフルエンザの予防接種(2011年10月24日)

 インフルエンザの予防接種は、みなさんどの程度受けているものなのでしょうか。私は、10年以上前から毎年受けるようにしています。今年も、予防接種の季節到来で、先日予防接種を受けました。インフルエンザになると、しばらく仕事を休まねばなりませんし、何よりも辛そうなので、予防接種を受けるようにしています。

 予防接種を受けていなかった期間も長いのですが、インフルエンザに罹った記憶が余りありません。はっきりしているのは、予防接種を受けるようになってから、罹ったことがあることです。熱が高温で下がりませんでした。予防接種を受けたので、まさか罹らないだろうと思っていました。しかし、病院に行くと、鼻の中に綿棒のようなものを入れるよう言われ、そこについた試料からインフルエンザだと即座に言われました。そのときはタミフルを処方してもらいました。一晩で高熱が下がり、健康なのではないかと勘違いするくらい元気になりました。治ったわけではないので、1週間は自宅療養でした。

 インフルエンザの予防接種をしたからと言って、罹らないわけではありません。しかし、私が罹った時は、数か月前に司法試験の口述試験があり、罹ったのはこれのせいだと思っています。司法試験の最後の関門が口述試験なのですが、ここまで歩を進めると、9割が合格します。ほとんどの人が落ちる試験なら、落ちることはむしろ普通であると開き直れます。しかし、9割が合格となると、落ちられないという意識が強くなり、変に緊張してしまいます。これのために、口述試験を受けられることが決まってから、いつもドキドキしていました。試験の当日は、心拍数108で、何時間も受験まで待たされました。心拍数が多すぎて、体が疲弊してしまいました。試験後は、いつも走っている距離がしんどくて走れなかったのでそのことは確かです。

 インフルエンザの予防接種をして、インフルエンザに罹るのは例外なのだと思っています。予防接種を受けたから大丈夫と、信仰にも似た気持ちを持っています。鰯の頭も信心からといいますが、予防接種は、鰯の頭よりもご利益があるのは間違いないでしょう。

香港映画(2011年10月17日)

 街を歩いていたら、DVDの安売りをしていました。「男たちの挽歌(原題 英雄本色)」のDVDがあり、購入しました。

 「男たちの挽歌」は、1986年公開の香港映画です。マフィアに帰属する豪(ホウ)、その兄弟分のMark、豪の弟で刑事のキットの間で繰り広げられる、兄弟愛や友情が描かれています。主演は、豪役に狄龍(ティロン)、Mark役にチョウユンファ、キット役にレスリーチャンでした。

 観た当時の衝撃は今でも忘れられません。これまでに観たことのない、大迫力の映画なのです。銃撃シーン、大爆発のシーンに圧倒されました。筋は硬派です。豪はキットのためにマフィアをやめましたが、刑事であるキッチャイは兄を許しません。豪の弟分であったアシンが組織内で力を得て、豪を再び組織に戻そうとします。複数の筋が絡み合ってクライマックスへと進みます。「香港電影的広東語」(キネマ旬報社)に、セリフの一部が出ていますが、読むと今でも映画のシーンが強く蘇ります。

 日本で公開されたのは、同時なのか少ししてからなのかはわかりませんが、私は、映画館でそのころ観ました。当時は香港映画と言えば、ジャッキーチェンのカンフー映画かミスターブーシリーズのコメディー映画でした。ジャッキーチェンのカンフー物は大概笑えるシーンが入っていて、コメディー映画でもありました。これら香港映画に私は親しんでいたので、内容は全く分からなかったのに、香港映画と言うだけで「男たちの挽歌」を観に映画館に入ったのでしょう。主演の3人さえ、初めて見る俳優でした。チョウユンファは、今では超有名俳優ですが、当時は日本では知られていなかったと思います。プログラムには、「香港の小林旭」と紹介されていて、何とか日本人に馴染ませようとしていました(余談ですが、香港の女優ロレッタ・リーは「香港の薬師丸ひろこ」と言われていました。いちいち日本人のそっくりさん、それもあんまり似てへん人を挙げんでええやろうと思います。)。

 「男たちの挽歌」は、香港の俳優はジャッキーチェンだけではないこと、香港映画は、カンフーとコメディーだけではないことを、私だけではなく、日本人に知らしめた作品です。

横浜トリエンナーレ(2011年10月10日)

 横浜トリエンナーレに行ってきました。現代の芸術家の作品が出展される展覧会です。10年位前になるかと思いますが、横浜ビエンナーレと言う展覧会がありました。こちらも現代の芸術家の作品が展示されていました。行ってみて、何をどう楽しめばいいのかわからない展覧会でした。今回のトリエンナーレもそのようなものかと思い、本当は行く気がなかったのですが、招待券があったので、行ってみました。やはり、よくわかりませんでした。

 美術展にはよく行く方です。雪が降る日本画を観ると、雪が降った時の静かな空間を体感します。行ったことはありませんが、印象派のパリの街の絵を観ると、雑踏のざわめきを感じます。ダリなどのシュールレアリスムの絵であれば、不思議な感覚にとらわれます。美術館では、私は、感覚に根差した楽しみ方をしています。

 しかし、芸術作品の楽しみ方には、他の楽しみ方もあります。私は、芸術は全くの素人ですが、展覧会で美大生と思われる人たちの会話をきくと、「この構図は面白いね」とか、「この構図はひどいね」と言って、名画と言われる絵を評しています。私は構図の良し悪しはわかりませんが、今述べた楽しみ方は、芸術を学んだ人ならではの楽しみ方です。技術的側面からの楽しみです。

 そして、現代芸術は、また別の楽しみ方の比重の大きな分野です。その楽しみ方とは、意図を知って楽しむというものです。たとえば、マルセル・ドゥシャンの「泉」という作品があります。どう見ても便器です。そして、まさに便器なのです。自分で作ったのでもなく、市販の便器です。従来から芸術品と言われる物とは異質なものを展覧会に出すことで、芸術とは何かを問うという意図があると言われています。便器を眺めて心が癒される人はあまりいないでしょう。意図を知ることで、初めて楽しめる作品です。

 今回行った、トリエンナーレの作品も、意図を知れば、楽しめたのかもしれません。意図がわかるものもありました。もちろん、作者の真の意図はわかりません。芸術作品は世に出れば、観た者の自由な解釈に委ねられるということを前提にしたものです。たとえば、壁に円がいくつも規則正しく並べられた作品がありました。円の中には四角を確か4つ並べた模様があって、全ての円が同じ模様でした。一見すると幾何学文様の作品に見えます。ところが壁の裏側に行くと、生い茂った木が横たわっています。実は、円に見えたのは、木が植わった植木鉢の底だったのです。この作品は、初めに木の方を観れば、植木鉢を横倒しにして並べたもので、そこから木が伸びているだけの作品と思うでしょう。つまり、幾何学文様も横たわった植木鉢から伸びる木々も2つ合わさって一つの真実なのに、一つの面を観て、それが何であるかを解釈し、全てを知った気になっていることのおかしさを気付かせることを意図しているのです。

 私に意図のわかる作品はほとんどなく、わけのわからない作品の連続でした。これらの作品は、あえて、感覚的に楽しむことを拒絶しているのでしょう。私には、感覚的に楽しむ作品が向いているようです。

畦道(2011年10月9日)

 テレビ朝日で放映している「タモリ倶楽部」で、先日東京23区の区境を取り上げていました。なぜ、そこに区境があるのかを紹介していたのです。区境の中には、昔の田の畦道が道になって、区境になっているというものがありました。畦道という点に妙に惹かれました。

 横浜には、中華街があります。あの界隈は、道が碁盤目にひかれているのですが、中華街の大きな通りは、碁盤に斜めにひかれています。その理由は、中華街が田んぼに建設され、その際畦道を大きな通りにあてたので、当時の畦道の形状がそのまま現在に伝わりました。横浜歴史資料館で知りました。

 道というのは一度できると長く続くものです。典型的なのは京都の道で、平安の昔にできた道が今に伝わります。もちろん道の幅は変わります。ここまで古いものでなくとも、明治、大正、昭和初期の地図で住んでいる町の道を調べると、当時の道が今に続いていることがわかると思います。

 畦道は、田にある土でできた道です。どちらかというと脆い構造物です。存続しにくいはずの構造物が、道とされたことで未来に長く続くことになりました。お金も人力もかけた壮大な建物は、いかにも未来永劫存続しそうですが、意外に長続きしないものです。畦道は、足元にある、特に金をかけたではない、なんということのない構造物です。形を変えているとはいえ長続きするところに、逆説的な面白みを感じました。

漢字の意味(2011年10月6日)

 朝テレビを見ていたら、国会議員の外遊の話をしていました。金の無駄ではないかという論調でした。コメンテーターがコメントして、「外遊の遊の字をなくすようにしてほしい」と言っていました。「外遊」の「遊」の字に「遊ぶ」の意味を込めた発言です。遊ばずに仕事をせよということです。

 随分昔に見たニュースで、海に「遊泳禁止」と書くとサーファーさんが怒るという話がありました。「俺たちの泳ぎは遊びとちゃう。命かけてんねん」ということなのでしょう。

  確かに「遊」の字は遊ぶと読み、好きなことをして楽しむ意味があります。しかし、「遊」の字を使う言葉には、遊説、遊走子、遊牧とかいろいろあります。遊説の「遊」を遊ぶと考えると、遊説とは人生いかに楽しむかを説くことであるとなるのでしょうか。実に哲学的です。勿論そのような意味ではありません。

 漢和辞典で調べると、「遊」にはあちこちに行くというような意味があります。外遊ほか、遊泳以外の上に挙げた言葉の「遊」は全部その意味です。遊泳の「遊」は浮くという意味らしいです。「遊」という小学校で習う程度の漢字でも調べると、知らないことが出てくるものです。

縁(2011年10月5日)

 司法試験に合格すると、すぐに裁判官、検察官、弁護士になるのではなく、研修所に通います。研修所の生徒を、司法修習生と言います。数年前に研修所の研修制度が変更になり、それにともなって、弁護士会では、司法修習生向けの講座が設けられました。そのときに、私は、刑事弁護の講座の講師に手を挙げたところ、講師になりました。以来、毎年刑事弁護の講座で話をしています。

 講座には、消費者問題に関するものもあります。これについても、2年前に講師をしました。講師と言っても、業者と取引して困っている人の役で、修習生からインタビューを受けるというものでした。今年は、消費者契約法の講義をすることになっています。

 何か講師づいています。私は、この業界に来る前は予備校の講師をしていました。研修所に入った時点で、これでもう講師はしないだろうと思っていました。ところが、弁護士になっても講師の仕事が来ます。

 もともと教育には縁があります。母方の叔父と叔母は教師でした。叔母は引退しましたが、叔父は今でも現役です。自己紹介に書いた親戚の清右衛門も水戸藩で教える仕事をしていたようです。本人の意思とは関係なく何かの方向に人を運ぶ不思議な力の存在を感じます。

代替わり(2009年2月4日)

 食べ歩きが趣味という方も多いでしょう。多くの店に足を運び、様々な味を楽しむことができ、それは楽しいことでしょう。ところが、私は、一度気に入ると通い続ける方です。外食の回数が多いわけではないので、勢い、同じ店に長期間通い続けます。

 京都に下宿していた頃、そばにイタリア料理の店がありました。買い物やどこかに出かけるときの道順の途中にあり、よくその店を見ていました。貧乏学生で今は叶わないけれども、いつかはきっと入りたいと思っていました。ようやく念願が叶ったのは、下宿を引き払い、自宅に戻る日でした。京の都を離れる思い出に、父に連れて行ってもらいました。何を食べたかは覚えていません。しかし、お店の人が親切で、店の雰囲気が家庭的であったことは覚えています。店の主人がニコッとほほ笑んだ顔を今でも思い出します。

 以来、そこがお気に入りになりました。もっとも、次に来店したのは、初来店から10年くらいたっていました。しばらくぶりに入ると、お店の雰囲気はそのままでしたが、当時接客をしていた人に代わり、若い人が接客していました。確かめたことはありませんが、前の主人の息子さんではないかと思っています。親切で温かい接客態度は受け継がれていましたし、店の雰囲気もそのままで、初来店のとき同じ心地よさがありました。その後も京都に行くと、その店に行っています。

 浅草にも行きつけの料理店があります。ここも私が京を離れて直ぐくらいから家族で通い出し、もう結構な年数になります。通い出してから、同じ接客係の人がいました。通ってしばらくしてからだと思うのですが、新たな接客係の人が入り、この人も以来店に出ていました。料理が絶品であることは勿論ですが、その人たちを含めて、お店の人の感じの良さが店の魅力です。

 ところが、ある日、その店に行ってみると、馴染みの2人がいないのです。別の接客係になりました。店の感じがいいのは変わりありません。ただ、これまでとは店の感じが変わったのは確かです。このときに初めて、「代替わり」という言葉を意識しました。すべてが永遠に続かないことは自明の理です。現に、京都のイタリア料理店では、「代替わり」を経験しています。しかし、イタリア料理店は、人が変わっただけで雰囲気が変わらなかったので、代替わりを意識しなかったのです。これに対し、浅草の方は、店の雰囲気が変わったことで「代替わり」の意識が芽生えたのです。一時代が去った寂しさを感じました。

 ただ、店を出る時に事情をきくと、お一人は、療養中ということでした。そのうち現場復帰ということらしいです。「代替わり」の寂しさから、少し解放された気分でした。


春やあらぬ(2008年12月27日)

 昨日26日が仕事納めでした。したがって、弁護士で、今日から休みという方も多いことでしょう。私はというと、当番弁護士になっていて、出勤しています。当番弁護士というのは、警察に捕まった人が、弁護士に相談ができるよう、相談担当の弁護士になるというものです。捕まった人が、当番の派遣を要請すると、当番担当の弁護士が、その人のもとに訪れます。私が担当した中では、要請の理由の多くは、刑事手続きがわからないので、今後どうなるか教えてほしいというものです。

 急に忙しくなって、土日も出ることが多く、しかも今日もこのような調子ですから、例年ならとっくに終わっている年賀状の準備ができていません。年賀状には、古典を題材にして、歌や言葉を入れるのですが、その選定に苦労しています。このところ読んでいないため、いい題材がわからないというのも理由です。

 美しいと思う歌はあります。伊勢物語に出てくる、「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」です。主人公が通っていた女性があったのですが、どこかに行ってしまって会えなくなりました。主人公が、もう女性のいなくなった館で読んだ歌です。月は昔の月ではなく、春も昔の春ではなく、わが身だけが昔のままである、というわけです。普通、不変であるべき春や月があって、春も月も昔のままなのに、わが身だけが変わってしまったと嘆きそうですが、この歌はそうではありません。変わったのは春と月で、変わらないのがわが身です。ここが面白いところです。本来心躍らせる春や月が、女性がいなくなって、以前とは異なり色褪せて見えるのでしょう。そして、自分は元のままである、つまり取り残されてしまったのです。暖かな春、明るい月、桜の花が目に入ります。誰もいない静かな館の廊下で、一人でいれば、美しい景色が却って、悲しさを増すことでしょう。人生の無常ではなく、一人になった悲しさがにじみ出ている歌です。

 好きな歌ではありますが、華やいだ正月の歌に使うには、ちょっとね、という気がします。

旅行(2008年11月30日)

 ホームページの改訂をせねばと思いつつ、1か月以上がたちました。変化のないことは、飽きられる原因の最たるものです。最近ご新規の訪問者も減りました。忙しいから変更がないので、それはそれで結構なのでしょうけれど。訪れる人が少ないのはさみしいので、今回久々の変更です。

 休みを利用し、日帰りで京都に行きました。目的は、六波羅密寺の秘仏を見ることです。六波羅蜜寺は、京都市下京区にあります。この寺で有名なのは、念仏を唱えると口から仏が出てくる空也上人像と、平清盛像です。何度みてもほれぼれする像です。今回は、辰年に公開される秘仏を見ました。辰年にあらざる本年は特別に公開中でした(公開日はご確認ください)。

 秘仏は本堂に安置されています。本堂に上がり、秘仏を眺めました。秘仏は十一面観音です。背の高い細みの体と、優しさの中にもきりっとしたお顔です。あまり公開しないせいか、金箔が多く残っており、輝きを感じます。優美な仏像を前に、いつまでも離れることができませんでした。

 京都で行こうと思ったところはここだけで、あとは特に予定は立てていませんでした。ぶらっと歩き、六道珍皇寺へ行きました。小野篁が、地獄に通う際に通ったという井戸がある寺です。盆のころはにぎわう境内ですが、この日は人がほとんどいませんでした。静かな境内でした。京都に住んでいるときは、特に意識しなかったのですが、京都のいいところは澄んだ空気と静けさです。都会で澄んだ空気と言うのは変なのですが、空を見ましょう。青く澄んだ空が見えます。寺はとくにそうですが、静かです。都会の喧噪を離れると、心が落ち着くのがわかります。時折は、人気のない広い境内で静けさを楽しみたいものです。京都に住んでいないのを返す返すも惜しく感じます。


                     六道珍皇寺


ハンマースホイ展(2008年10月16日)

 上野の西洋美術館で開催中のハンマースホイ展に行きました。ハンマースホイは、19世紀末のデンマークの画家で、彼の地では有名な画家だそうです。日本ではそれほど知られているのでしょうか。少なくなくとも私は知りませんでした。このため、ハンマースホイの絵を見たのは今回が初めてです。

 面白い絵の描き方をします。建物内部の絵を描く時、人は描きません。家具もほんの少ししか描きません。引っ越すときに、家具を置く前の部屋の内部を見るかのようです。建物内部であり、明らかに生活の空間であるにもかかわらず、生活感がないのです。頭の中で、生活の場であるという理屈とその感じがない印象が乖離して、不思議な気分になります。

 街を描いても、人がいません。人の雑踏が醸し出す、人間的なぬくもりや、喧噪が全く感じられないのです。そこに人間の造った構造物のみがある絵を見ていると、この世から誰もいなくなり自分だけが残されたような不安を覚えます。数か月前に見た映画「I am Legend」で、人のいない都会風景を見たときと同じ感覚です。

 このような絵のせいでしょうか。どの絵を見ても、一切の音がないぐらいの静寂を感じました。印象派展をしているときのような混雑がなく、観客が少ないことも、その感覚を強めました。静かな静かな展覧会でした。

 さまざまな感覚に襲われながら、その感覚を楽しめる展覧会でした。


源氏物語 2008年9月17日

 「いずれのおんときにか」と言えば、有名な源氏物語の書き出しです。今年は源氏物語誕生1000年ということで、記念の展覧会が行われています。

 今の学校事情はわかりませんが、私の頃は高校の教科書に源氏物語が取り上げられていました(という記憶です)。だから、同世代は源氏物語を知っているということになりましょうか。しかし、一節を読んだことがあるかどうかとはかかわりなく、紫式部作源氏物語を知らない人はいないでしょう。

 有名な作品であり、全編を読破したいという夢は昔からありました。しかし、なんといっても長い作品です。しかも、古文としては読みやすい部類には入らにように思います。大学受験の勉強のためにZ会に入って、添削を受けていましたが、国語の出題に源氏物語が取り上げられ、苦闘した記憶があります。こちらは記憶があるぐらいですから、余程苦しめられたのでしょう。何が大変かというと、文が難解なのです。主語がないので、誰の言動であるか、すぐにはわかりません。地の文と会話文が区別しがたいのも、意味を取るのを困難にします。

 現代語訳も出ています。しかし、古典はあくまでも古語で読んで昔の時代に浸りたいというわがままな希望を持っていました。読破を決意して何年もたって、いい本に巡り合いました。新潮日本古典集成の源氏物語です。原文があり、分かりにくいところは現代語訳があり、注釈も豊富という本です。主語は補ってありますし、鍵かっこもついています。これにより、原文を味わいつつ、物語を楽しめました。

 源氏物語は、光の女性遍歴の部分ばかりが語られますが、女性遍歴を一つの大きな柱に、光の政治的な生活も別の柱として、物語は進みます。そして、根底には、無常観や因果応報という仏教観があり、読む者に常に仏教を感じさせます。源氏物語は、光の生涯が描かれますが、光は、忽然と物語から姿を消します。その行方は読者にはわかりません。次いで現れるのが、光の子として生まれた薫と、光の孫である匂兵部宮です。今度は、この2人と浮舟の3人の恋愛を柱に物語が進みます。

 この3人の物語の部分である宇治十帖は、読んでいると宇治川のせせらぎが聞こえます。今、宇治川の畔に立つと、ざあという音が聞こえます。物語は、見事に宇治の光景を踏まえています。都の中心部とは異なった、自然の風景に満ちた宇治川を背景に、3人の生き方が動的に描かれる宇治十帖は、源氏物語の中で、好きな部分です。


古典文学 2008年8月15日

 夏休みのところも多いようですが、当事務所は夏休みはなく、張り切っています。では、本題に。

 日本の古典文学は、中学や高校で学びます。動詞の活用形を覚えたり、古語の意味を覚えたりと、味気ない勉強を積まねばなりません。入試に出るからということで、古典の問題を解くこともあります。学校時代、古典を楽しむ心の余裕は出にくいと言えるでしょう。

 私もそのような一人ですが、司法試験の勉強を始めてから、古典をよく読むようになりました。古典は難しいとの印象があります。しかし、それは学校で使われている作品が、読むのが難しいものを使っているからです。

 当初読んだのは、上田秋成の「雨月物語」です。これは江戸時代の作品ですから、擬古文です。意味が取りやすいうえに、話の筋が怪談で、楽しくすぐ読めます。「平家物語」も読みました。これも意味が取りやすく、どんどん読めます。大作として、「太平記」も読みました。南北朝を舞台にした軍記物です。大河ドラマを見るような気分にさせる作品です。中国の古典を引用するところが随所にあるのですが、そこは冗長な気もします。

 兎に角、どれを読んでも面白いこと請け合いです。「今昔物語」は、読んでいてよくこのような展開になるものだと感心しました。話の展開が奇想天外です。「今昔物語」は、本朝を舞台にするものとそれ以外があるのですが、個人的には、我が国を舞台にした本朝が好きです。話の展開が巧みな作品が多いからです。

 他にも面白くて、すぐに読んでしまったのは、「落窪物語」です。継子いじめの物語です。主人公の姫君は高貴な出なのですが、継母が下女としてこき使うは、下品な老人に嫁がせようとするは、あの手この手でいじめ抜きます。しかし、この姫君を見染めた高貴な公達が現れます。公達は姫君を救い出そうとするのですが、はて結末は・・・。

 「狭衣物語」も好きな作品です。容姿端麗の主人公は、妹のように一緒に過ごしてきた従妹に恋をします。しかし、受け入れられず、いつも空しい気持ちでいながら、女性遍歴を重ねます。源氏物語に似ていますが、それとは全く違った話しで、意外な結末を迎えます。最後のシーンが何とも哀愁を帯びていて、大いに気に入っています。


走る  2008年7月28日

 北京五輪が近づきました。報道では様々な意味で北京五輪が取り上げられますが、五輪の録画をしたがる人を狙った、録画機器の宣伝が行われ、スポーツ観戦を楽しみたい人もきっと多いはずです。

 スポーツというのが元来苦手です。学校時代、体育の点はよくありませんでした。興味もないので、運動部に入ることもなく、体を動かす機会もあまりありませんでした。スポーツは観ることさえ好きではありません。

 司法試験の受験勉強が本格化すると、体を動かす時間が極度に減りました。ふと考えたのは、足を使う状況です。机の前で一日の大半を使うようになると、机と家の中のどこかの間を動く時しか足を使いません。足が弱るのは目に見えています。しかも、体重が増え始めました。そこで、始めたのがジョギングです。

 減量に役立っているか否かはわかりませんが、体にはいいようです。今でもそうですが、走れば、机に向って凝り固まった体がほぐれる実感があります。久々に走ると、腹筋、背筋が筋肉痛を起こしますから、そこいらに効くようでもあります。マラソンは学校時代もっとも嫌いな競技でしたが、今では嬉しそうに走っているから不思議です。競技ではなく、自分の好きな速さで好きな距離を走るのがいいのでしょう。

 横浜は、MM地区は歩道が整備され、安全に走れます。臨海パークに出れば、船が行き交う海が見えます。波の荒い日には、臨海パークの岸壁に波がぶつかり、水しぶきが高く上がります。足を延ばして中華街に行けば、店から漂う香辛料の匂いがします。視覚的に、さらには嗅覚的にも楽しく走れる街が横浜です。

 今の時期は、よほど涼しくなければ走りませんし、真冬は走らず、花粉の時期も走りません。オフが多いのですが、走ることは長く続いています。五輪では、マラソンを楽しみにしているのか?いえいえ、人の走る姿を観る趣味は、やはりありません。


オペレッタ 2008年7月16日

1 フォルクスオーパー

 今年は、しばらくぶりで、フォルクスオーパーが来日しました。

 フォルクスオーパーはウィーンにある歌劇場で、オペレッタをよく上演しています。フォルクスオーパーは、何年かに一回来日し、日本にいながらにして本場のオペレッタを見せてくれます。

 オペレッタは、喜歌劇と訳されます。日本でよく知られているのは、ヨハン・シュトラウス作の「こうもり」とフランツ・レハール作の「メリーウィドー」です。オペラとよく似ていますが、話の筋は明るいのが普通です。通常は、男女の恋愛を描きます。男女は、時には反発しながらも最後には、恋愛が成就します。音楽は、親しみやすくわかりやすいものです。歌い手は、時には踊りも交えて歌います。オペレッタでは、華やかで、楽しい舞台が繰り広げられます。「Volksoper wien」で検索すると、フォルクスオーパーのホームページが出ます。そこでは、舞台の短いビデオを観ることができますので、興味のある方はそちらへ。

2 待望のオペレッタ

 フォルクスオーパーは初来日のころは、3年に1度くらい来日しましたが、このところは8年に1度くらいしか来ません。他の劇場にしても、オペレッタの公演自体あまりありません。舞台が観られないなら、せめてテレビで放映を、と思いますが、放映はほとんどありません。DVDでも、といってもやはり、あまり出ていません。オペレッタは、観るのが大変難しいのです。

 このため、曲は知っているが、どのような話かわからないオペレッタというのがあります。たとえば、タウバーのレコードやCDには、あるオペレッタに出てくる歌のうちの何曲かだけ入っていることがあります。これを聴くだけで、もちろん、感動しますが、そのオペレッタの舞台を観たことがないので、どのような話なのか、どの場面で歌われるのかが謎のまま残ります。しかも、何十年もとなるのです。

 そのようなものの一つに、Die Herzogin von Chicagoの曲があります。訳すと「シカゴ公爵夫人」となります(もっとも、ここでHerzoginを「夫人」と訳すのは完全な誤訳ですが)。日本では、ほとんど知られていないエメリッヒ・カールマーンの作です。タウバーのレコードにそこで歌われる曲のうちの二曲が入っていました。一曲は、哀愁を帯びたワルツの「ウィーンの歌」、もう一曲は不思議なメロディーの「平原のバラ」という曲です。

 カールマーンの作品は、別の作品をフォルクスオーパーの舞台で観て以来、ファンになりました。彼は、ウィーン、ハンガリー、アメリカの音楽を取り混ぜた作品を作っています。ハンガリー音楽の哀愁を帯びて、情熱的な曲が効果的に現れて、聴く者の気持ちが高まります。カールマーンファンとしては、「シカゴ公爵夫人」はどのような作品か観てみたくて仕方なかったのですが、その機会もなく、月日が流れました。

 ところがある日突然、DVDが出たのです。3年前でしょうか。フォルクスオーパーのライブ映像です。期待どおりの素晴らしい舞台でした。幕が開くと、ハンガリー風の憂愁を帯びた曲が鳴り、続いて軽快なチャールストンになります。美しい旋律の数々、情熱的な曲も、軽やかな曲もあります。出だしから、圧倒され、終りまで終始押され通しでした。色彩豊かな舞台、音楽と一体となって観る者を魅了する踊りと、待った甲斐がありました。そして、起伏のある話の展開に見入ってしまいました。

 他にもDVDでいいので舞台を見たいオペレッタはいくつもあります。次が出ないか日々首を長くして待っています。

Die Herzogin von Chicagoあらすじ

 シカゴの資産家の娘メアリー・ロイドは、友人の資産家の娘達と賭けをします。次の誕生日までに、お金の力で、ヨーロッパの王子と結婚するというのです。メアリーは、経済破綻寸前の小国シルヴァーリエンのシャーンドール王子に目をつけ、ヨーロッパに乗り込みます。しかし、ワルツとチャールダーシュをこよなく愛する王子と、ジャズをこよなく愛しアメリカ文化至上主義のメアリーは反発しあいます。それでも、やがて転機が訪れ、二人は互いを理解し始めたのですが、そんな矢先・・・。続きは、是非DVDで。



あと少し 2008年7月7日

 7月です。周囲でもちらほらと夏休みの話が出ています。世間では、楽しい夏休みを想起させる季節に入ったわけですが、司法試験受験生は、大一番が近付き緊張が高まるころでしょう。

 現行司法試験は、3つのタイプの違う試験から成り立っています。5月に短答式(択一式)、7月に論文式、10月に口述式があります。一つ一つに合格・不合格があり、合格者だけが次の試験に進めます。ただ、論文式の合格者の9割は口述式に合格するので、天王山は論文式でした。受験生は、論文式の合格を目指し、日夜勉強します。

 年中朝から晩まで勉強している感のある司法試験の受験生ですが、実は、7月の論文式の試験を終えると、大抵は長い休みに入ります。論文式の合格発表は、2か月半ぐらい先です。合格していれば、口述式の試験が待っているので、その対策でもすればよさそうですが、合格しているかどう分からないのに、対策を立てるのは虚しいものです。不合格なら、また論文試験に向けた勉強をすることになりますが、合格しているかもしれず、論文式に向けた勉強も、やはり虚しいのです。

 私は、論文式直後が、長い受験生活の中で、唯一心休まる時でした。発表は遥か先で、合否いずれかと気をもむこともありません。時代によって違いますが、暑い中、2日又は3日間、わけのわからぬ問題と格闘するのは、大変しんどいものです。それから、解放された直後は、天と地ほどの気分の違いを感じます。青い空と暑い気温が、解放感を掻き立てます。長い夏休みの始まりというのも、明るい気分でした。

 受験生の皆さん、あと少し辛抱してください。


華やかでないパリ 2008年6月27日

 印象派の絵画展には何度か行きました。そこで見るパリを描いた絵は、いずれも、華やかな街としてパリを描いています。通りに馬車が行き来し、美しく着飾ったパリジェンヌが道を歩いています。それほど背が高くない整った建物が街に並びます。セーヌにかかる橋は、川の風景と合った、優美な姿をしています。

 このような絵と対照的なパリの姿を描く画家もいます。その一人が佐伯祐三です。佐伯祐三は、1898年に大阪の寺の住職の子として生まれます。東京で絵を学んだあと、1923年渡仏します。一時帰朝したことがありますが、1928年30歳で亡くなるまで、フランスで画家として活動しました。モディリアーニ同様、短い人生を絵画に捧げた人でした。

 最近、佐伯祐三展に行きました。一挙に何点もの彼の作品を見られる貴重な絵画展でした。彼の描くパリは、華やかな雰囲気とは無縁です。壁にべたべたとポスターが貼られたとある街角、クリーニング店、食料品店、レストラン、工場のような庶民的な建物が描かれます。対象が、華やかでないだけではありません。全体が暗い色調で描かれます。その絵の印象を一言でいうと、「黒」となります。対象と色彩が合わさって、絵全体からは、猥雑さや、場末の雰囲気が、強く発せられています。

 葉が落ちた冬枯れの木、いかにも寒そうな鉛色の空が描かれていることもあります。佐伯祐三は華のないところに美しさを見出したのでしょう。猥雑美、場末美というような変な言葉がぴったり合う絵の数々でした。


跡地巡り 2008年6月16日

 大学に入った年の、暑い京都の夏に入るころでした。大学の講義中先生から、「せっかく、京都大学に入ったのに、吉田山にも登らずに卒業する人もいます。皆さんは、ぜひあちこちの寺や神社を夏休み中回ってください」と言われました。吉田山というのは京大のすぐ前にある小高い丘で、吉田神社があります。私は、元来神社仏閣が好きですので、吉田山に登るのはもちろん、京都市内の寺々、神社を回りました。

 寺社回りと並行しながらしていたのが、「跡地」巡りです。京都には、数々の跡地があってそのことを示す碑が建っています。たとえば、京都の中心部の河原町通りには、「近江屋跡」という碑が立っています。ここは坂本竜馬が滞在中襲われた、醬油屋の近江屋があったところなのです。他にも少し先の三条通り沿いには新選組と勤皇の志士が死闘を繰りひろげた池田屋の「跡」という碑もあります。菅大臣神社には菅原道真の邸宅跡という碑があります。

 いずれも「跡」というぐらいで、今は、別の物が建っていて当時の物があるわけではありません。当時の物を見ることができないことが、寺社回りと根本的に異なります。

 では、このような跡地の魅力とは何でしょうか。一つは、歴史的事件や人物と自分の距離を、時空のうち空間だけ縮められることです。現場に立つことで、活字の知識でしかなかった事件なり人物なりを、身近に感じられます。もう一つは、無常を感じることでしょう。たとえば、先に挙げた菅大臣神社は、小さな境内をもつ神社に過ぎません。しかし、道真は大臣にまで上り詰めたのですから、往時は、きっと大邸宅があったのでしょう。栄耀栄華もまたはかないと感じざるをえません。

 無常観は、日本の古典文学を読むとよく出てきます。源氏物語の紫の上は、光の最大の寵愛を受けながらも、その終りが来ることを恐れています。それは紫の上が、そして紫式部が無常観に貫かれているからでしょう。このような無常観は、きっと電子機器に囲まれて暮らす現代の日本人にも受け継がれているのでしょう。だから無常を感じることで、感動をするのです。

 ただ、京都の跡地巡りは、かなり上級の(マニアックな?)楽しみ方のようです。学生時分、京都に来た友人を跡地に連れて行こうとしたら、「たまにしか京都に来ないのだから、有名な所に連れて行ってよ」と言われてしまいました。

埋木舎 2008年6月5日

 彦根城の近くに埋木舎(うもれぎのや)という建物があります。大老井伊直弼が若いころ住んでいた住居です。今も当時の建物があり、庭から建物内を見学することができます。



                     埋木舎

 大老井伊直弼と言いましたが、大老職についたのは偶然の産物でした。直弼公は、彦根藩藩主の子として生まれました。しかし、上に何人も兄弟がおり、直弼公はそもそも彦根藩の藩主になる可能性さえなかったのです。直弼公は、埋木舎で、学問、武術、茶道に勤しんで暮らしていました。

 同じ藩主の子であっても、跡を継いだ兄とは大きな身分差があり、藩主である兄が埋木舎の前を通るときには、建物から出て土下座でお見送りをしたと言います。それが、上の兄が養子に出たり、死亡したりして、直弼公に藩主の座が回ってきたのです。

 この埋木舎は、以前から何度か見学したいと思っていました。しかし、何故か駄目なのです。調べずに行ったら、定休日。定休日を外して行ったら、不定期の休み。他にも、近くに行っても彦根に行けるのが定休日しかなく、入れなかったこともあります。

 これは、因果かと思いました。井伊直弼と言えば、安政の大獄です。上の紹介に書いた、親戚の清右衛門は尊王攘夷を唱えていたので、安政の大獄の際には、幕府は、属していた水戸藩に対し、清右衛門を出頭させるよう命じていました。清右衛門はどこかに行ったということで出頭させられなかったのですが、妻と従者が幕府により入牢させられました。

 他方、清右衛門の方は桜田門外の変に参加しようとします。しかし、日を間違えたとかで、参加できませんでした。

 いわば、直弼公と清右衛門は不倶戴天の敵どうしです。その清右衛門の親戚なので、拒まれているのかと思いました。

 ところが、去年、やっと見学できました。普段は庭からしか見ることができないのですが、特別に内部の公開もしていました。直弼公が茶を点て、客に振る舞った茶室に座り、直弼公が講師を呼んで勉強したときに座った部屋のその座ったあたりに座りました。この部屋には、蝶番がついて内外に開閉する雨戸があります。閉めたとき、戸の一か所を押すと簡単に外に開くのですが他を押しても開かないという直弼公考案の雨戸です。直弼公がその箇所を押し続けたため、今では凹んでいます。私は、そこを押して雨戸を開けさせてもらいました。

 150年の時を経て、まさか自分が捕まえようとした人間の親戚が、自室にいるとは、直弼公も思わなかったでしょう。


モディリアーニ  2008年5月28日

 国立新美術館で開催中の「モディリアーニ展」に行ってきました。

 モディリアーニというと、細長い顔、アーモンドのような目、長い首が特徴的です。そのような絵を一度に数多く見ることができ、観覧は貴重な体験でした。

 あの特徴的な絵を観ると、これまでどうしても造形の斬新さに目が奪われてしまっていました。しかし、今回何点も観ていると、斬新な造形の中で、神経質そうな性格、優しそうな性格のような、人物の個性が描かれていることがわかりました。マリーローランサンの肖像画は、彼女が才能あふれる美人であることがよくわかります。私は絵の専門家ではないので、詳しいことはわかりませんけれども、そのような感じがしました。

 モディリアーニと聞くと、すぐに「モンパルナスの灯」を思い出します。モディリアーニの伝記映画で、モディリアーニはジェラール・フィリップが演じていました。観たのは、中学の頃か、高校の頃で、以来一度も見ていないので、記憶は定かではありませんが、モディリアーニは悲劇の画家だという印象が強く残りました。貧困と失意のうちに、30代で死んでしまうのです。ジェラール・フィリップが30代の若さで死んだことと重なって余計に悲劇を感じます。実際のモディリアーニも30代半ばで病死します。しかも、その直後に身重の妻が自殺しており、本当に悲劇の画家なのです。

 そのせいか、あの特徴的な肖像画の背景は暗い色遣いです。陽気なエネルギーは感じられません。ところが、そのような絵の中にあって、明るい太陽光一杯の背景を描く絵がありました。南仏に滞在したときに描いた妻の肖像画です。しかし、この絵を描いて間もなくモディリアーニは病死します。生の象徴太陽を感じた途端に死に至ったようで、人生の皮肉を感じます。


見知らぬ先祖 2008年5月22日

 今もあるのでしょうか。小学校のときに先祖調べの課題がありました。先祖には、それまで全くの興味がなく。親からきいたこともありませんでした。課題が出たので、初めて親にきいて、先祖の名前や職業を知りました。ところで、そのとき調べた先祖は、父系の直系尊属です。どうも、先祖というと、父系の直系尊属を思い浮かべてしまいます。しかし、よく言われるように、先祖は、n代前は延べ2のn乗人だけいます。当然父系の直系尊属だけが先祖ではないわけです。

 長ずるに及び、父系の直系尊属以外に誰が先祖なのだろううかと気になりました。そこで、手軽にできる先祖調べとして、戸籍をたどってみました。これにより、父方の祖母の祖父のような、これまで聞いたこともない先祖の名が判明しました。ただ、このやり方では、名はわかっても、人柄も職業も何もわかりません。実態が全く不明なのです。ただ、明らかなのは、自分がその人の血を引いていることだけです。

 そのような実態のわからない先祖の一人で、5代前のおじいさんが近くに住んでいたことがわかりました。当時私は千葉県内に住んでいたのですが、千葉県は偶然住んだだけで、近くに親戚も何もないので、意外な事実でした。

 ある日その地を訪ねて行きました。訪問の目的は、墓を見つけることでした。昔の人は住居の近くに墓をもつものです。墓がわかれば、さらなる先祖やまだ見ぬ親戚の情報が得られるかも知れません。そうするとそこからおじいさんの何かの情報を手繰れるかも知れません。幸い、その地域には寺が2か所か3か所しかなく、全部調べられそうでした。暑い夏の日、炎天下汗だくになって調べました。しかし、見つからず仕舞いでした。どこか別の所に墓があるのでしょう。子孫に血を残し、いずこかへ去って行ったようです。

 何も収穫はなかったのですが、おじいさんと同じ土地をふみしめたという満足感はありました。その満足感を土産に帰ろうとしたとき、その地域の地酒の幟が出ている酒屋さんを見つけました。酒好きの私が買って帰ったのは言うまでもありません。その夜おじいさんも飲んだであろう地酒を飲みながら、あれこれとおじいさんの様子を想像しました。


誰もが知っているのに知られていない曲 2008年5月14日

 近所にリラの花が咲きました。香りを調べるべく顔を近づけましたが、香りはよくわかりませんでした。

 Wenn der weiße Flieder wieder blüht(白いリラの花が再び咲いたなら。フリッツ・ロッター作詞、フランツ・デレ作曲。) という1930年ころのドイツ語圏のポピュラーソングがあります。その一節に、「白いリラの花の香り」というところがあるので、香りを確かめたのです。

 ところで、この歌の題名を見ても、知っている方はほとんどいないでしょう。ところが、聴くと日本人なら大抵は知っている曲なのです。それは宝塚歌劇団の「すみれの花咲くころ」です。上の曲は、「すみれの花さくころ」の原曲になります。

 レコード全盛時代で古い話なのですが、戦前のヨーロッパで人気の高かったテナー、リヒャルト・タウバーの外国盤のレコードを集めていました。当時のSPではなく、SPからLPに復刻したものですが。彼はオペラ歌手なのですが、ポピュラーソングを多く残しました。

 そのうちの1曲が「白いリラの・・」の曲です。当時私も「白いリラの・・・」の曲は知りませんでした。買ってきて聴いた彼のレコードから「すみれの花咲くころ」のメロディーが出たときはびっくりしました。気になったのは歌詞です。今では、外国のCDに歌詞カードがついているものがありますが、当時はありませんでした。ドイツ語の歌詞を必死にヒアリングしますが、私の能力ではわかりません。それでも、Frühling(春)、küss(キス)、deine roten Lippen(君の赤い唇)、Pärchen(恋人どうし)の単語が聴き取れ、どうやら春と恋の歌であるようでした。

 歌詞がわかったのは大分あとのことです。

 

 春よ、私のように皆お前を愛す

 春よ、幸福に満ちながらお前を心待ちにする

 ・・・

 白いリラの花が再び咲いたなら、君に最も美しい恋の歌を歌おう

 いつまでもいつまでも、また、君の前にひざまずこう

 

というような歌詞でした。リラと訳しましたが、原語のFliederは他にニワトコの意味もあり、こちらを指すという話もあります。

 リヒャルト・タウバーの歌うこの歌は、今ではCDで聴けます。心躍る春の気分を味わえるでしょう。


名は似ているけれど 2008年5月8日

 「お台場」と言えば、首都圏では有名な東京都にある観光地です。テレビ局、娯楽施設、飲食店とさまざまなものがあり、多くの観光客が訪れます。 

 横浜にも「台場」がありました。「台場」は海に浮かぶ人工島でした。幕末に、外国船からの我が国への侵略を防ぐために、松山藩によって建設されました。

 台場は、大砲で外国船を撃退する役目を担わされていたのですが、大砲が実際に外国船を攻撃したことはなかったそうです。それどころか、外国船の入港を歓迎し、祝砲をあげていたそうです。戦争という殺伐とした目的で造られた台場が、友好のための施設になったとは、微笑ましい限りです。

 台場は、やがて、横浜の開発の中で消えゆく運命をたどります。埋め立てにより、台場は陸の一部になります。台場の上にも土が置かれ、いまではすっかり地中に埋没しています。台場の跡には鉄道が敷かれ、建物が建ち、周囲の土地に完全に同化してしまいました。今行ってみても、そこに台場があったことは微塵も感じられません。わずかに、鉄道施設の下に当時の石組みが顔をのぞかせる程度です。

 「お台場」と違い、「台場」は訪れる人はありません。「台場」は、人々に知られることもなく、静かに眠っています。

参考 横浜開港資料館「神奈川のお台場の歴史」展



                  現在の台場の様子

横浜都市遺跡 2008年4月30日

 横浜駅の西口(東京駅方面に向かって左)に出ると、バスターミナルがあり、ビルが林立し、多くの人が行き交う様子を見ることができます。ここが少し前までは海だったと知った時は信じられない気持でした。

 広重の「東海道五十三次」の中に、「台の景」と題される絵があります。絵の右には、店が並ぶ東海道が描かれ、左3分の2には青い海が描かれています。海の上には何艘もの船が浮かび、中には大きな帆船もあります。その海こそ、現在の横浜駅西口一帯なのです。海は明治以降徐々に埋め立てられ、それに連れ現在の横浜駅周辺部の姿へと変化していきました。船の行き交う海が、わずかな間に大都会になるとは驚きです。 

 この他でも横浜は、埋め立てを通じて大きく変貌しています。観光客に人気のMM21地区も埋め立てによりできました。できてしばらくはほとんどがただの空き地でしたが、近年はマンションの建設が盛んで、多くの棟が立っています。

 こうして移り変わりの激しい街なのですが、江戸末期から変わらず残っているものもあります。それが「象の鼻」です。「象の鼻」はクイーンエリザベス2世号も停泊する大桟橋から垂直に海に伸びた突堤です。江戸末期に造られ、船の荷の揚げ降ろしに使われました。その後、手は入れられているそうですが、江戸期から同じ場所にあり続けています。

 開港当時の港の様子は、当時の錦絵により知ることができます。今では、街の様子はすっかり変わってしまっていました。そのような中、「象の鼻」だけが当時の街の様子を見せてくれます。土台は石ででき、海水に濡れて黒くなっています。古びた感じがして、江戸時代の雰囲気を漂わせます。

 「象の鼻」は赤レンガパークからよく見えます。「象の鼻」の周辺部は再開発中で、そのうちもっと間近に見ることができるようになるのでしょう。現代的な横浜を楽しみながら、「象の鼻」を見て、開港時の街の様子に思いを馳せるのも楽しいものです。 


私は意外と好きですが 2008年4月23日

 真新しい黒いスーツに身を固め、地図を片手に道を歩く若者が目につきます。就職活動中の学生さんです。就職できるのであろうか、できるとしても希望の企業に入れるのであろうかと不安一杯になりながら、企業に向かっているに違いありません。

 夢の内定を得るまでは、山があります。その山の一つが数学です。企業によりますが、面接相手を絞るために数学を含む学力試験を課すところがあります。私は予備校の講師時代、その対策として、数学の講座も担当していました。

 数学を教えていたというと体がいいのですが、その内容は中学3年生までに習う数学、算数です。速度、濃度、仕事算、確率などなどで、誰でも勉強したことのあるものばかりです。しかし、ことが数学です。難しい、つまらない、できれば勉強を避けたい。日本で一番嫌われている科目です。このため、誰でも勉強したことのある数学でも、苦手な人は本当に苦手です。

 しかし、数学なんて知らなくても生活には困りません。学生さんも、高校で文系コースを選び、以来何年間も数学と付き合わずに過ごしてきた人がいます。

 なのにです。大学生活も終わりに近づいたところで、あのおぞましい数学の勉強をまたしなければならないのです。「数学が嫌だから文系に来たのに」と怨嗟の声さえ聞こえます。予備校ゆえ、勉強範囲を区切って学生さんの負担を軽減するようにはしています。しかし、義務教育時代数学の勉強を避け、人によっては高校時代勉強せずにここまで来たのです。学生さんが、いかに苦痛な時間を強いられるかは想像に難くありません。苦痛な時間の司会者たる私は、当然不人気講師の一人でした。

 さっき見かけたリクルートスーツの若者も、今頃数学の試験に苦しめられているかもしれません。就職のお手伝いをしたことのある者としては、早く希望の企業の内定をもらい、リクルートスーツから普段着に替えて、残り少ない学生生活を楽しんでほしいと思うばかりです。

縁 2008年4月16日 

 不思議な縁はあるものです。

 自己紹介に書いた清右衛門という人物は有名ではないのですが、たまに本に名を現わします。あるとき図書館で本を見ていると、彼の記事がありました。そこには、墓所の記載がありました。場所は「出島村○○」とあります。出島ときいて、一瞬長崎かと思いましたが、彼が水戸藩郷士であることから、水戸藩、つまり現在の茨城県下であろうと思って調べると、その地名がありました。

 出島村○○は霞ヶ浦の湖畔にあります。早速、行ってみました。彼は、明治の声を聞くことなく、とある寺で切腹して最期を遂げます。ということは、墓所は寺であろうと考え、出島村の寺を探しました。なかなか見つからなかったのですが、自動車で流していて、寺の門を見つけました。通り過ぎたので降りて行ってみると、勘違いで、寺ではなく、民家でした。

 探しても一向見つからず、しかし墓所の住所からするとその辺りに墓があるはずです。全く知らないお宅ですが、厚かましくも、そのお宅のチャイムを鳴らし、彼の一族のものであることを告げて、墓所の場所を尋ねてみました。すると、お宅の方が丁寧にお話ししてくださいました。場所はもちろん教えていただきましたが、なんとそこは清右衛門に養子を出した家系だというのです。偶然にも、一人の人物につらなる家系の人間が、100数十年の時を経て出会ったのです。

 図書館で偶然見つけた記事から、勘違いを経て、あった出会いです。縁の不思議を感じます。

 今回これを読んでくださった方も何かの縁です。今後とも当ホームページをよろしくお願いいたします。

高架のある風景  2008年4月9日

 山下公園は、言わずと知れた、わが町横浜の一大観光スポットです。中華街、元町から近く、横浜港を一望でき、しかも海を間近に見られるとあって、大勢の人が訪れます。

 今では跡形もなくなりましたが、以前は、山下公園内に海岸線に並行に走る鉄道の高架がありました。桜木町方面と山下埠頭方面をつなぐ貨物線の名残です。私は横浜に住んで10年以上になるのですが、来た頃は高架は残っていて、私にとっては、山下公園の景観の一部でした。それが、数年前撤去されてしまいました。私にとっては景観の一部ですし、歴史的遺物として置いておけばいいものをと思っていました。

 ところがです。先日、横浜の鉄道写真の展覧会に行って知ったのですが、貨物線の高架を作る際、山下公園の景観を害するという批判があったそうです。そうすると、高架の撤去は元のあるべき姿に戻したともいえます。確かに、高架のせいで暗い雰囲気があったものが、撤去により公園が明るくなったように思います。山下公園が美しくなったのは事実です。

 それでも、使われなくなって放置されていた高架は、どこか悲しげで好きでした。もっとも、鉄道施設に魅力を感じるのは、鉄道好きのなせる技で、普遍的なものではないのかもしれません。

パソコン  2008年4月3日

 このホームページは、パソコンを使い自分で作っています。

 前職の予備校に勤めだした頃、職場ではパソコンを当たり前のように使いこなしていました。しかし、私は家でパソコンを使ったことがあまりなく、何をどうしていいのか、職場で右往左往していました。データの保存場所という概念もなく、やみくもに保存しては、席の近くの人にデータを探索してもらっていたぐらいです。

 それが今や、パソコンで映像を編集して、DVDを作ったり、このようにホームページを作るようになりました。特別得意というほどではなく、こつというのもおこがましいのですが、試行錯誤が大事です。新しいソフトを使うときは、適当に操作して何がどう変わるかを調べるようにしています。

 パソコンはどう操作しても壊れないのが普通です。ただ、この間、壊れかけたパソコンを修復しようとして、却って壊したことがありました。壊れかけのときは、試行錯誤は要注意です。 





 

 


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